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貴重な画像がいっぱい!必見の価値あり◆岡山大学埋蔵文化財調査研究センター◆
岡山市の吉備津神社の上にある古代吉備研究センター◆岡山県古代吉備文化財センター◆
岡山県総社市にある吉備の古代資料館◆岡山県立吉備路郷土館◆

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邪馬台国論争は昔から、その所在地をめぐって大和説、北九州説の二大説を中心に四国山上説、奄美大島説、沖縄説
吉備・岡山説、出雲説、丹波説、、、、、など、さまざまな説があり 果てはインドのデカン高原説まで出る始末
なかには「邪馬台国は無かった」という珍説まで出て、百家争鳴、五里霧中の感がある
最近では大和説が古墳の出土物から有力視されているようだが、決め手とはなっていないようだ
歴史学会、考古学者、民間研究者、宗教家などが入り混じって、各々自説を主張しているが確定はしていないようだ
そこであえて「邪馬台国は吉備だった!」という説を打ち出す、邪馬台国吉備説は過去にも民間識者などが
諸説打ち出しているがあまり大きな話題にはなっていないようだ 説には岡山県玉野市、熊山町、笠岡などあるが

「邪馬台国の女王 卑弥呼の墓は楯築遺跡、本拠地は日差山」という新説をあえて打ち出す


楯築遺跡は倉敷市東部で岡山市との境あたりにあたる現在は庄パークヒルズという団地の中の小山である
王墓山古墳群という古墳の一番北に楯築遺跡があり立石の屏風岩や椅子状の巨石がある 小さな社があり
掘り出された狐帯紋という波状の80センチほどの石が御神体として祭られている
日差山というのは楯築遺跡の西にある標高187メートルほどの山であるが、山頂部に巨石のイワクラがあり
現在は日差寺という天台宗の寺になっている 豊臣秀吉の備中高松城の水攻めの際、毛利軍の武将の小早川隆景が陣を布いた
日差寺からハイキングコースが出来ており南に下ると金崎池という池があり、さらに南に下ると高鳥居山という山に出る
ちょうど川崎医大の北側の山である 高鳥居山には巨大なメンヒル(立石)遺跡や神功皇后のゆかりの遺跡がある
ふもとは二子という村だが、神功皇后が双子を産んで産湯に使ったという伝説の井戸もある
楯築遺跡、日差山ともに吉備津神社から西の方向にあり、あまり遠くない位置にある
あえて邪馬台国の所在地に結論から先に書いて、次章からはその根拠を詳しく書いていきたい

邪馬台国論争の決定打になるか?「邪馬台国は吉備国だった!」


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風見岩

日差山の風見岩から岡山平野を見る

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●2008年5月29日(木)●
小山修三・国立民族学博物館名誉教授が、住居遺構の数などから推計した弥生時代の人口推移(人口で見る日本史・鬼頭宏上智大学教授)を見ると
弥生時代の日本列島の総人口は59万4900円 地域別内訳は
北九州 4万500人 奈良時代には34万0500人
山陽 4万8900人 奈良時代には43万9300人
四国 3万0100人 奈良時代には27万500人
近畿 10万0500人 奈良時代には96万300人
邪馬台国の時代は2〜3世紀で弥生時代後期にあたると思うがだいたい200〜300万の人口と見ているが、仮に300万人と仮定すると上記データの5倍になる
そうすると、山陽の4万8900人の5倍、約5万人の5倍で25万人になる なぜ人口にこだわるかというと魏志倭人伝での邪馬台国の人口は7万戸と表現されているからだ
7万戸というと4人家族で約28万人になる 25万人にほぼ近くなる 四国邪馬台国論などというものがあるようだが、人口推計の上からも無理だろう
近畿というのがどこまで含めるのか?わからないが魏志倭人伝の投馬国をこちらは但馬国(兵庫県出石市など)と仮定しているので、兵庫県も含めると
10万0500人の5倍、約50万人ということで一応、邪馬台国の候補地にはなり得る 
北九州は弥生時代4万500人、5倍して20万人とすると、人口面で邪馬台国というのはやや苦しいのではないか?と思える
いずれにしても、従来の邪馬台国論は人口の面から解明するという学者はいないようで、あいも変わらず「陸行、水行」とやっているようだ
妄想的邪馬台国論ではなく、科学的、合理的に人口推計などから真実に迫るべきではないだろうか?


●2008年5月9日(金)●
司馬遼太郎 対話選集9「アジアの中の日本」文春文庫という文庫本を買った タイトルに引かれて買ったわけだが、日本の歴史も中国の歴史や朝鮮の歴史と
連動しながら、動いている歴史だ そういう意味で「邪馬台国論争」なども中国史や朝鮮史などを読みながら、解明しないと真実は解明できないだろう
ネット掲示板などでは相変わらず、九州説と畿内説で「陸行、水行」と進歩の無いことをやっている 魏志倭人伝などの解読も九州説の学者は九州説に都合のいい
部分だけ取り出して「九州が邪馬台国だ」と主張している また畿内説の学者は畿内説に都合のいい部分だけ取り出して「大和が邪馬台国だ」と主張している
魏志倭人伝以外にも随書や旧唐書など倭国を記述した中国の古文献は多くあるが、学者がそこから引用するときに捏造していたりする その捏造された解説書を読んで
日本人が九州説が正しいとか、畿内説が正しいとか言っている人が多い そういうわけで原文の写真版などに当たらないと真実がわからないことが多い
捏造学者が大学の名誉教授などの肩書きを持っているものだから、鵜呑みにする人が多いようだが、巧妙に捏造、ミスリードしていることが多い
この捏造学者というのは日本だけに限らず、朝鮮や中国にも数多くいるようだ というわけで数十年前から歴史認識の共有ということで3国の歴史学者が集まって
議論しているが、3国の学者とも「わが国の主張が正しい」の一点張りで少しも前に進まない 捏造学者ばかりが集まって、その捏造ぶりをアピールする場になっている
だけというのが寂しい現状のようだ それにしても学者の捏造ぶりは悪質だ 以前に旧石器時代の石器を捏造していたゴッドハンドと呼ばれる権威もいたようだが
捏造の現場を毎日新聞にスクープされて権威から転落した 他の時代も似たようなもので、捏造学者、御用学者が捏造しまくりというのが日本の歴史学会の現状のようだ
いつになったら、邪馬台国の真実が明らかになることやら・・・・・・・それにしても日本の歴史学者の捏造ぶりは悪質だ


●2008年2月24日(日)●
岩波書店、歴史学研究会編の「世界史年表」を買った 太古の昔から日本・東アジア、南アジア、西アジア・アフリカ、ヨーロッパ・ロシア、南北アメリカなど
コンパクトによくまとまっている 日本史年表はかなり詳しいのを持っているが邪馬台国問題などを考えると、東アジアの中の日本という観点で捕らえないと
正確に理解できないようだ 邪馬台国論争も相変わらず、畿内説と九州説で進歩の無い議論をやっているようだが、彼らの観点には東アジアの中の倭、邪馬台国という
観点に欠けているようだ また新聞なども奈良県の遺跡などについては異常に熱心に報道するが、吉備の国の新発見などについてはほとんど報道しない 偏っているようだ
「世界史年表」の中の記述の弥生時代の遺跡で最初に書かれているのが岡山県の津島遺跡だ 大和の発展、遺跡などは4〜5世紀くらいからで、邪馬台国の時代の
2〜3世紀の遺跡は大和にはほとんど無い 邪馬台国は戸数が7万戸、人口にすれば30万人くらいだろうからかなりな都市ということになる
30万人くらい生活をしていれば、それなりの痕跡があるはずだが、大和にはそれらしき痕跡は無い 倉敷市の弥生墳丘墓の楯築遺跡は3世紀に出来たものだ
3世紀というと邪馬台国の女王、卑弥呼の時代だが、楯築遺跡を卑弥呼の墓と考えると時代的にもピッタリ来る 奈良県の箸墓古墳が卑弥呼の墓だという説もあるが
当初は4世紀ごろに築造と言われていた箸墓古墳がだんだんと年代が古くなり、最近では3世紀ごろと主張する学者も出てきたようだ いわゆる捏造学者だろう
無理やり、邪馬台国畿内説にこじつける勢力もあるようだが、年代的に考えて、大和地方が発展したのは邪馬台国の後の4〜5世紀からで畿内説は年代があわない
「世界史年表」を読みながら、また邪馬台国について考えてみよう


●2008年2月11日(月)●
山の中に入ったときによく縄文時代の人間は何を食べていたのか?よく考えてみるのだが学校の教科書などには狩猟や木の実などを食べていたということになっているが
山の中に木の実などさほど無い 時期によってアケビなどが取れるが不定期だ 狩猟といっても今みたいに猟銃があるわけではないので槍などで取っていたのだろうが
野生動物がそんなにうまく取れるはずが無い いろいろ考えてみて主食は恐らく魚か?貝などの水産物だろうと思う 縄文貝塚というのがあちこちで発見されているが
干潟や浅瀬がある海岸べりに居住して、貝を拾ったり魚を釣って生活していたのだろう 野生動物の狩もたまにはやっていただろうが、そんなに毎度取れるはずは無い
縄文海進で縄文時代には現在の日本列島には多くの干潟があっただろうが、食料の確保ということから考えると海岸沿いで居住していたと見るべきだろう
世界の旧石器時代の遺跡などの位置もやはり海岸沿いにあることが多いようだ 邪馬台国の時代(2〜3世紀)も食料の確保が一番大事なことだろうが
奈良県の奈良盆地みたいな山奥で果たして食料の確保が可能なのだろうか?邪馬台国は7万戸ということだが4人家族とすると28万人になる
28万人の食料を安定的に確保ということになると、当時は稲作はさほど盛んではなかったという状況を考えると、山奥の奈良盆地では無理だろう
その点で吉備は吉備の穴海と表現されるほど島と海が混在していた地域で今の岡山県の平野部はほとんど干潟状態だろうから食料確保には最適だろう
邪馬台国・四国山上説などという荒唐無稽な説もあるようだが、四国剣山の山上で28万人の人口を養うことは無理だろう 当時の人口は200〜300万人
無理して四国の山上に住む必要は無いわけで、やはり食料が安定的に確保できる海沿いの土地に住むというのが自然だろう 邪馬台国・大和説は食糧確保という点から見て
無理だろう 稲作などが普及して食料の確保、保存などが出来るようになった5〜6世紀になれば大和に居住も可能かもしれないが2〜3世紀では無理だろう
また九州説もあるが、台風の多い九州に都を作る必要が果たしてあるのか?台風は毎年、毎年来るわけで、そういった被害の多い地域に無理して住む必要は無いだろう
それより、災害の少ない、食料確保が容易な吉備に拠点を設けたほうがよほどいいだろう 邪馬台国論者は数多いが当時の人口が200〜300万人ということを
無視している連中が多いようだ 200〜300万人というと日本列島のあちこちにパラパラと住んでいるくらいのものだ
自然条件、食糧確保、災害の少なさなどを考えて、邪馬台国の女王の卑弥呼は吉備に拠点を設けたと考えるのが自然だ


●2007年11月20日(火)●
鳥取県鳥取市の青谷上寺地遺跡(あおやかみじち)が文化審議会に史跡申請された 同遺跡は弥生時代前期末から古墳時代前期まで続いた集落遺跡だ
平成10年から始まった発掘調査で弥生時代の掘立建物跡、大規模護岸跡、水田跡、木器、骨角器、鉄製品、絹織物、人骨5300点、金属性武器が突き刺さった頭蓋骨
7.4メートルの木製柱、3.97メートルの角垂木などが見つかっている この遺跡に以前から注目しているのは、国内最古級と見られる絹織物が見つかっているということ
邪馬台国のことについて調べているが女王の卑弥呼の後継者トヨの時代に魏の国に絹織物を贈ったという記録が魏志倭人伝に残ってる
絹織物を贈ったということは、それを生産していたから出来ることで、当時の絹織物が出土しているのは、鳥取県の青谷上寺地遺跡と佐賀県の吉野ヶ里遺跡の2つだけだ
奈良県の大和地方では出土していない 邪馬台国は大和説と九州説の2説が主流のようだが、絹織物を出土していない、つまり弥生時代には大和はそういう文化が
発展していなかった ということから大和説は絹織物だけで外してもいい そこで吉備と九州に絞られるわけだが、魏志倭人伝に青い大きなメノウを贈ったとも
記載されている 日本で青いメノウが算出するのは島根県の玉造だけだ 九州では青いメノウは算出しない 絹織物と青いメノウの両方を産出するのは吉備だけだ
ネット上では相変わらず「陸行、水行」だなどと進歩の無い議論をやっている連中も多いようだが、物証からアプローチしたほうが真実にたどりつくのは容易だろう
大和説だ、九州説だと、いつまでヨタ話を続けるつもりだろうか? 彼らの無限連鎖のような、終わりの無い議論には辟易する 合理的思考ゼロのような連中が多いようだ


2006.11.14邪馬台国は兵庫の西部、鳥取、島根の東部、岡山、広島の東部、徳島、香川、愛媛を含む広大な領域


鳥取市青谷町の青谷上寺地(うえやかみじち)遺跡から、約1800年前の杉の7メートルくらいの柱が見つかった
ちょうど1800年前というと邪馬台国の時代にあたるが魏志倭人伝の楼観に使われた柱ではないか?という説もある
青谷上寺地(うえやかみじち)遺跡は弥生人の脳が見つかったことで有名だが、もう一つ見逃せないのが日本最古の絹織物が出ていること
同じ頃の絹織物が佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも出ている 邪馬台国から魏の国に絹織物(倭錦やまとにしき)が贈られていることから
邪馬台国は佐賀県あたりと鳥取を含む吉備国の2箇所に絞られる 機内、大和では絹は3世紀ごろには作られていなかった
だから絹織物を贈ったという時点で機内・大和説はアウトということになる また青メノウを贈ったと魏志倭人伝に書いてあるが
日本で青メノウが採れるのは島根県の玉造だけ、九州では取れない だから青メノウを贈ったという時点で九州はアウト
絹織物と青メノウを贈れたのは鳥取県、島根県の東部を含む吉備王国だけということになる
こういう物証に日本の邪馬台国学者が注目しないのか?不思議でならない 相変わらず、水行、陸行とわけのわからん屁理屈ばかり並べてる
楼観といえば、ウェブテレビが邪馬台国の女王の卑弥呼の墓と比定している倉敷市の楯築遺跡の東側、足守川の東に惣詰というところに
楼観の基礎に穴と思われる大きな穴が残っている 明治天皇が野立ちでこの惣詰に降り立ったという ちょうど東に吉備津神社
西に楯築遺跡という中間に惣詰がある、南に上東遺跡、北に加茂遺跡がある 
楯築遺跡の東南に久米、現在の岡山市久米という地名もあり現在は工業団地などがある 久米部というのは邪馬台国の軍事部門を
担当していた部族だ 岡山県の東部には久米郡久米町、久米南町、弓削などという地名も残っている
こういったことに邪馬台国学者はもっと注目すべきだろう 久米南町の北の柵原町の吉井川と吉野川の合流地点の飯岡という地区の
北部に月の輪古墳があり、ここからも絹織物が出土している 資料館で現物を見たが化石化していうようで見た目では絹とは見えないが
顕微鏡で見ると絹製品らしい 月の輪古墳は古代の豪族の墓だろうがかなりの勢力を持っていた豪族だろう 柵原町の教育委員長の
案内で現場に行ってみたがハイキングコースにも絶好のコースのようだ
津山市の南の旧久米郡中央町には絹織神社という神社があり近くの地名に桑下、桑上、倭文川(しとりがわ)打穴(うたな)などという
絹織物に関係のありそうな地名が並んでいる 打穴は製鉄に関係した名前のような気がする
製鉄は兵庫県東部、アメノヒボコを祭る出石神社のある出石から岡山県の東部あたりから始まって、備前、備中、備後と西に向かって
広まっていったようだ 古代では塩、鉄が最重要製品でありこの2つを供給できるのは吉備以外には無いだろう
塩は現在の岡山県玉野市の出崎海岸や喜兵衛島などで作られていたようだ 喜兵衛島には製塩土器の破片が数多く残っているようだ
古代王権は塩と鉄を作る能力を持った部族が握ったと見るのが自然で、塩も土器も鉄も作れない部族が王権を握れるわけがない
奈良県の大和地方の内陸部でどうやって塩を作ったのだろうか?邪馬台国機内・大和説は荒唐無稽な妄想の産物だろう
調べれば調べるほど、邪馬台国吉備説に自信が湧いてくる

2005.11.22邪馬台国では青メノウが採れ、青メノウを魏の国に贈っている、日本では玉造だけ


魏志倭人伝では、下記のように二箇所、青玉、大狗珠と青メノウについての記述がある 邪馬台国では青メノウが採れ、青メノウの
勾玉を魏の国に贈ったということだが、日本で青メノウが採れるのは島根県玉湯町の玉造だけ、他では取れない
つまり、玉造を含む吉備王国でないと、魏の国に青メノウを物理的に贈れないということになる
大和や九州で採れないもの、青メノウを魏の国に贈れない、大和説、九州説はどう言い訳するのだろうか?無いものをどうやって贈った?
邪馬台国論争には文献や鏡など色んな資料があるが、いずれも改ざん可能や解釈によっての捏造などが起こりやすいが
鉱物資源の青メノウとなると、改ざんも不可能だろう 動かぬ証拠となる この青メノウが、ほぼ決定打と言っていいだろう
邪馬台国は、玉造を含む吉備王国と言って、まず間違いないところだろう

出眞珠其山有丹其木有豫樟櫪投檀鳥號楓香其竹篠桃支有薑橘椒荷
不知以爲滋味有K雉

 和訳:倭国では真珠や青玉がとれる。山には赤土がでます。木では、クス、トチ、
   クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデなどがある。
   竹では、シノダケ、ヤダケ、カヅラダケがあります。
   また、ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガなどもある。しかし、賞味することをしらない。
   オオザルやクロキジもいます。

復立彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將
掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔大狗珠二枚異文
雜綿二十匹

 和訳:倭人たちはまた、卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(とよ)を王に立てた。
   国中はようやく、定まった。張政は前の回状を使って、台与を励ました。
   台与は、倭の大夫で率善中郎将の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、張政らを帰国を送らせた。
   ついでに彼らは、魏の中央官庁に生口三十人を献上し、白珠五千、大玉の青メノウ二枚、
   異国の模様のある絹織物二十匹を貢いだ。

上記の邪馬台国で採れる鉱物、樹木、植物、動物などは吉備の国では全部採れるものだが、
大和では取れないような樹木(タチバナなど)も含まれている
また、クロキジなどは現在でも倉敷市の日差山に多数生息している

2005.09.14邪馬台国の女王の卑弥呼は中国の遼東半島の公孫氏の一族


晋書 四夷伝倭人条


唐の太宗の勅撰、房玄齢らの「晋書」130巻(百納本)
「晋書」帝紀 正始元年(240年)泰始2年(266年)義キ9年(413年)の3箇所が記述されている


倭人乱攻伐不定乃女子為王名曰卑弥呼宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見

倭人があい攻伐したため女王を立てる 名を卑弥呼という 宣帝(晋の初代の司馬イ)の平らげし、公孫の一族なり 
その女王の使いが、帯方郡に朝見する
「卑弥呼」 は 
[中国人で、公孫氏(こうそんし)の繋類(けいるい)] !

    「晋書(しんしょ)」 巻九十七 「四夷伝(よんいでん)」 中に、
  [争乱に明け暮れる「倭」に一人の女王が擁立(ようりつ)され王となって
    乱が収(おさ)まった。その女王の名を「卑弥呼」と云う。彼女は、かつて
  「西晋(せいしん)の始祖・宣帝(せんてい)」に滅ぼされた「公孫氏」で
  あった] と明記されている。

   彼女の出自氏姓(しゅつじしせい)は、
  遼東侯「公孫(こうそん)氏」の繋類(けいるい)であり、日本人ではなく
   中国人である。

   多くの研究家とか作家などと称す人々が描く、日本人好みの「ロマンのヒ
  ロイン的卑弥呼像」は、崩壊せざるを得なくなる。「卑弥呼」を虚構的世界
  の所産でなく、厳然たる「史実の存在」として描いていると言えよう。 

上記は民間史家の山形明郷氏の論であるが、山形氏の論は邪馬台国の所在地を中国の東北部(旧満州地方)に比定するもので
邪馬台国の女王の卑弥呼が公孫氏の一族であるというのはいいにしても、邪馬台国を中国東北部に比定することは
その後の歴史の推移から見て、不自然というか、おかしいといわざるを得ない

中国の国書の「晋書」に明確に卑弥呼は公孫氏の一族であるということを、うたっているわけだから、この点は重視せざるを得ない
なんといっても国書だから、いいかげんなことは書けない、根拠のあることと見るべきであろう

「晋書」に明確に卑弥呼は公孫氏の一族であるとうたっていることは、日本の邪馬台国歴史学者は当然ながら知っているものと
思われるが、なぜか?この部分を見過ごして?削除して紹介していることが多い 中国の国書の「晋書」に決定的なことが
書かれているわけだから、これは当然重視すべきだろう 昔の中国の王様は権力があったから、間違ったことを記載すると
それを書いたものの首が、即座に飛ぶような状況だったわけで、間違ったことや、いいかげんなことは当然書けない

信頼度は高いと見ていいだろう 邪馬台国論争も魏志倭人伝の解釈に偏りすぎており、魏志倭人伝の解読だけでは
真実の解明は無理なようだから、それに匹敵するような中国や朝鮮の歴史書などから真実の解明を進めていくことは当然のことだろう
最近、日本で発行された「新視点 古代倭国の研究」新人物往来社 刊の152ページに原文、166ページに百納本の写真版が
紹介されている こういう場合は写真版が一番正確、歴史学者は故意にその場所を飛ばして紹介したりするから、たちが悪い

邪馬台国の女王の卑弥呼が公孫氏の一族で、倭国に派遣され、公孫氏の勢力を背景にして、倭国の女王として共立された
と考えると、スンナリと理解できる その後、238年に中国の遼東半島の公孫氏が魏の司馬イによって滅ぼされた

卑弥呼は、出身母体の公孫氏は魏に滅ぼされたが、倭国として魏の国に朝貢した 魏の皇帝は当然、公孫氏と倭国の卑弥呼の
関係を知っているだろうから、敵対せずに朝貢してきたことを格別に喜び、特別に親魏倭王の金印やみやげ物などを大量に渡して
厚遇した そう考えると理解がしやすい

魏の皇帝も卑弥呼について、汝の好物として中国製の鏡などを渡している これは中国の皇帝が卑弥呼の性格などを熟知していたという
ことを物語っている 中国生まれの卑弥呼だからこそ、魏の皇帝も卑弥呼の性格などをよく知っていたのだろう
あるいは、幼時に面識があった可能性もある 中国の使者に卑弥呼は漢文の返書を魏の国に贈っており、これなどは
中国生まれの卑弥呼だったからこそ、漢文がすらすらと書けたものだろう

公孫氏の一族として、倭国に派遣された卑弥呼は、吉備の国に土着して勢力を拡大したのだろう
公孫氏の協力なバックアップがあったからこそ、倭国の女王に共立された、中国から文物や武器などを輸入する能力がるからこそ
他の部族も卑弥呼を共立したのであろう

卑弥呼の活躍した痕跡が、吉備の国のアチコチに残っているようだ

2004.11.15邪馬台国所在地論争 比定地と論者


邪馬台国の所在地をめぐっては、江戸時代から九州説の本居宣長から大和説の新井白石などの論争から始まり、
いまだに決着を見ていない 比定地も150箇所以上にのぼり、論者も無数に上るが有名どころの名前を紹介してみよう


◎邪馬台国 吉備説


主な論者 久保幸三 広畠輝治 薬師寺慎一 若狭哲六


久保幸三(ジャーナリスト)岡山の吉備津・日差山周辺が邪馬台国の本拠地、卑弥呼は神功皇后・墓は楯築遺跡、投馬国は但馬、狗奴国は高知

広畠輝治(ジャーナリスト)岡山・香川・広島東部が邪馬台国の領域、蒜山高原が高天原、狗奴国は大和

薬師寺慎一(古代祭祀研究家)吉備津神社周辺が邪馬台国の本拠地、楯築遺跡が卑弥呼の墓

若狭哲六(古代史研究家)岡山県東部の備前市・熊山町にまたがる熊山が邪馬台国の女王の卑弥呼の終焉の地


●邪馬台国 大和説

●1、邪馬台国 大和朝廷同一説 
松下見林 新井白石 伴信友 橘良平 稲葉君山 内藤湖南 富岡謙蔵 梅原末治 高橋健二 笠井新也 森田元春 和歌森太郎

●2、大和朝廷九州発生 邪馬台国大和朝廷同一説
日本書紀の編者、片山正夫 中山平次郎 肥後和男 原田大六 

●3、邪馬台国 大和朝廷断絶説
小林行雄 直木孝次郎 上田正昭 
田辺昭三(東京造形芸術大学教授)畿内大和川流域、天理市から三輪山一帯、箸墓、石塚山が邪馬台国

●4、九州勢力による畿内邪馬台国打倒説
鳥越憲三郎


★邪馬台国 九州説

★1、邪馬台国 大和朝廷独立並行説(襲国偽潜説、九州王朝説)
本居宣長 鶴峰戊辰 近藤芳樹 吉田東伍 那珂通世 星野恒 菅政友 久米邦武 白鳥庫吉 喜田貞吉 古田武彦 
武光誠(明治学院大学助教授)福岡県筑後川流域が邪馬台国、狗奴国は肥後国北部 奴国は博多湾 弥奴国が吉野ヶ里
関祐二(歴史作家)卑弥呼の女王国の九州王朝(天皇家の祖先)がヤマトと偽潜して親魏倭王の印を取得、畿内ヤマトと合併した


★2、邪馬台国 大和朝廷同一起源説
坂本太郎 橋本増吉 太田亮 植村清二

★3、邪馬台国と大和朝廷の不連続説
津田左右吉 藤間生大

★4、投馬国東遷説 狗奴国東遷説
牧健二 水野祐

★5、騎馬民族征服説
江上波夫

★6、邪馬台国東遷説
和辻哲郎 栗山周一 飯島忠夫 和田清 榎一雄 市村其三郎 井上光貞 金子武雄  森浩一 
奥野正男(宮崎公立大学教授)佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡や福岡県甘木市平塚川添遺跡を含む筑後川北岸が邪馬台国
黒岩重吾(作家)福岡県甘木市、久留米市、八女地方が邪馬台国 投馬国は出雲 不弥国は福岡県宇美町 伊都国は前原町
安本美典(産業能率大学教授)福岡県甘木市、夜須町付近が邪馬台国 卑弥呼の墓は甘木市大塚 邪馬台国が大和に移動

★7、具体的な場所による説 
久保雅勇(画家)佐賀県吉野ヶ里が邪馬台国、伊都国は筑後川の東、斯馬国は糸島半島、吉野ヶ里の日吉神社の鳥居周辺が卑弥呼の墓
安藤輝国(古代史研究家)大分県宇佐市 宇佐神宮、安心院周辺が邪馬台国 宇佐氏は卑弥呼の末裔 宇佐神宮亀山が卑弥呼の墓
渡辺豊和(京都造形芸術大学教授)熊本県阿蘇神社周辺が邪馬台国、伊都国は小城町、投馬国は長崎県雲仙岳周辺、狗奴国は宮崎県高千穂
荒巻義雄(作家)有明海の東岸・福岡県山門郡が邪馬台国 狗邪韓国は福岡 卑弥呼の居館は阿蘇山のどこかにあった

■邪馬台国 その他
移動海商連合国・佐治芳彦 四国阿波説・岩利大閑 静岡県下田説・肥田政彦
大川誠市(源初漢字・古代史研究家)出雲が邪馬台国 伊都国は福岡 不弥国は遠賀川周辺、投馬国は萩周辺
大杉博(古代史研究家)徳島県神山町山上が都 卑弥呼の墓は徳島市の八倉比売神社 投馬国は高知 狗奴国は徳島東部
小林恵子(古代史家)奄美大島が邪馬台国 2世紀後半から3世紀にかけて北九州の伊都国に本拠を置いた邪馬台国に移動した
木村政昭(琉球大学助教授)沖縄が邪馬台国 伊都国は佐賀県大和町 奴国は佐賀平野 不弥国は久留米 投馬は薩摩
岡田英弘(東京外国語大学名誉教授)中国晋朝狂言説・魏志倭人伝は偽書、邪馬台国は架空の国


なぜ日差山が邪馬台国なのか?


日差山(ひさしやま)と聞いてもなんか聞いた事が無い?どこそれ?という人が大半だと思われるが場所は岡山市と倉敷市と
山手村が境界を接する倉敷市の北部になる 旧の庄村というところだが、車で行くと庄パークヒルズの団地の西側の道沿いにあった
今は閉鎖しているスーパーのところから西に入り車で10分ほど山を上ると山頂部にでる

最近はハイキングコースとして整備され日差山から西の仕手倉山(223メートル)や南の高鳥居山まで道が整備されている
頂上の巨石をイワクラとした古代祭祀あとが現在は天台宗の日差寺となっているが以前は老尼が一人いたが現在は無住である
位置的には東に楯築遺跡、北に造山古墳(日本で4位の大きさ、全長360M,幅23M,高さ27M)と等距離にある
地元の伝承では夜見山彦と夜見山姫という豪族がずーっと昔に住んでいたという

東にある楯築遺跡は岡山大学の近藤義郎教授の考古学チームが発掘調査していろんな発掘物(石棺、朱)などが出てきたが
同じような石の墓は日差山に多く見られるがなんせ場所が広大なため調査ができなかったという、赤いペンキで印だけつけてる例もある
楯築遺跡の石棺は九州の石で出来たもので中から歯が出てきたが女性の歯だったという 九州との交流をうかがわせる
庄パークヒルズの団地工事では楯築遺跡周辺から白骨が多数出てきたそうだが工事を急ぐため処分したという
それらの白骨が出てきた部分から測定するとちょうど大きさは百余歩になる

楯築遺跡

倉敷市庄新町の庄パークヒルズの王墓山古墳の楯築遺跡

日差山がなぜ邪馬台国なのか?その理由はいろいろあるが

1、遠方から見る景色がほぼ台形(とくに東から見ると牛が寝そべっている景色、古代には、うし山と呼ばれていた)

2、3世紀に出来た最大の墓は楯築遺跡、3世紀に一番勢力のあったのは邪馬台国の女王の卑弥呼

3、楯築遺跡から出てきた石棺から女性の歯が出てきた(卑弥呼の歯?)

4、楯築遺跡は写真にあるように巨大な屏風岩が供え物を入れる石、王の椅子などの形状の巨石があり行政府があった

5、日差山に比べ楯築遺跡は低地にあり、当時は海の中で小さな島であったと思われる、舟による交通の便利がよかった

6、楯築遺跡の東に吉備の中山があり現在は吉備津神社がある、距離的には日差山と吉備の中山の中間地点に楯築遺跡がある

7、楯築遺跡の南に上東遺跡があり、数多くの粘土製の出土物が出ており古代の集落があった

8、日常の行政は楯築遺跡で、普段の生活は天然の山城の日差山でというようにしていたものと思われる

9、地図上で北には岡山県の落合町、湯原町、鳥取県の関、倉吉市、大栄町がある

10、地図上で西に直線上に元伊勢伝説がある弥高山がある

11、新羅との秘密の直結路として高梁川沿いに総社市、高梁市、新見市、鳥取県米子市(淀江廃寺がある)が活用された

12、高梁川の上流部に昔から鉄の鉱山があり高梁川の砂場で磁石を使うと砂鉄が多く採れる

13、総社市の阿蘇地域で昔から製鉄業が盛んで武器や農具を作っていた、製鉄の際の赤ら顔を鬼と言われた

14、総社市の鬼の城に温羅(ウラ)の伝説があり、温羅は百済の王子で鬼と呼ばれていた

15、温羅は大和からやってきた吉備津彦に退治されたという伝承があるが吉備に強大な国があったということをうかがわせる

16、日差山山中に神宮皇后に関わる遺跡、またふもとには神功皇后が舟をつないだ遺跡、双子を産んだという伝承などがある

17、吉備津神社の吉備という文字は福井県敦賀市の気比神宮の元になった文字で岡山県の吉備と福井県の越は深い交流があった

18、日差山の北部に上房郡の賀陽町(かようちょう)があり、韓国の伽耶(かや)との関係を連想させる

19、古代の吉備の祭祀の中心地は岡山県の西北部の川上町の穴門山神社だが元伊勢伝説があり裏の洞窟に鏡が祭られていた

20、岡山県の西北部の広島県との境の哲西町に荒戸山、荒戸神社がある、新羅ゆかりの荒、穴などの地名がある

21、古代吉備国は南は讃岐の香川県、西は安芸の広島県、東は備前の岡山県の東部、北は島根県の伯き、までの広大な領地

22、讃岐、安芸、伯き、など吉備国の領地の末語は「き」という言葉になっている

23、魏志倭人伝の投馬国は広島県の鞆、または岡山県の玉野市の玉 玉姫神社がある

ざーと書いてみると以上のようなことが考えられるがもとより浅学非才、重々承知はしているが、一つの問題提起として
あえて「邪馬台国は吉備国だった!」を主張したい
まだまだ検証作業が進んでいない面もあるがご意見、ご批判はご遠慮なくメールwtfront@yahoo.co.jpまでお寄せください
こういうニュースがあるよ、取材に来て、こういう伝承があるよ、というような情報もドンドンお寄せください

2004.10.31邪馬台国の所在地論争、大和説・九州説、批判


邪馬台国の所在地をめぐって多くの論争があるが、主には九州説と大和(畿内)説の二説であり学会での論争もこの二説が主流である
東大・九大を中心とする九州説と、京大を中心とする大和(畿内)説が学閥がらみで論争しているという構図といえよう

この構図はインターネットの掲示板などにも及び、その他の候補地が出ると、九州説、大和説の双方から攻撃を受け、あえなく沈没する
両説論者は狂的な信者とでもいうべき、執着気質の人が多く他論に耳を傾けようとはしない、新興宗教団体の信者の様に似ている
両説の論者が中身のある議論をしているのかと思って、のぞいて見ると魏志倭人伝の一字一句の解釈をめぐって延々と自説を述べ合う
という、およそ議論とはいえないような議論が多いようだ どちらかというとマニアによる議論する悦びに浸っている趣である

邪馬台国の所在地論争は江戸時代の新井白石・本居宣長から延々と続いている、どうどうめぐりの議論で、いまだに結論が出ていない
考古学上の発見が相次いで結論が出るのかと思っていると、ますます謎が深まるばかりで、混迷の度を深めるばかりが現状である
両説の学者は双方が我が方の勝利と口角泡を飛ばす勢いで勝利宣言したりしているが、いずれも確定には至らない妄信の論のようだ

こうなって見て、邪馬台国論争を俯瞰してみると、九州説、大和説の二大勢力が激しい論争をしているが双方とも違うため
100年議論しようと、300年議論しようと結論が出ない、つまり現状維持ということになる
むしろ本当の所在地を隠すために両説が永遠に議論することが一番望ましい、そうすれば永遠に真相は闇の中に葬れる、ということになる
真相が明るみに出ないほうが望ましい、永遠の闇であって欲しいと考える人は、二説の永遠の議論が続くことこそ理想的なのだろう
現実にインターネットの議論など両説の揚げ足取りに終始しているだけで、真実の解明意欲など毛ほども感じられない

両説以外の異説が出ると、冷笑して無視するか、両説派が総がかりでつぶしにかかるというのが実情である
およそ真実の解明に取り組む学者の魂など毛ほども無く、曲学阿世の徒が邪馬台国所在地論争の両説派に群がっているというのが現状だ

邪馬台国所在地論争の基礎になるのは卑弥呼とほぼ同時代に生きた、魏の後継の晋の著作朗であった陳寿が書いた三国志の中の
魏書東夷伝倭人条の2008文字である 大昔の書にしては倭人について詳しく中身が濃い 官人の著だけに信頼度は高い

両説派はこの魏志倭人伝の2008文字の文字の中で、自説に都合のいい部分だけを取り出し、自説にこじつけるという作業に終始している
魏志倭人伝の2008文字の全文を通読すれば、両説とも決定的な矛盾が出てくる

大和(畿内)説は、魏志倭人伝に書かれた習俗が裸足、文身など南方の習俗、東に向けて海行できないなど決定的な矛盾が生じる
また九州説は邪馬台国の女王の卑弥呼が倭国大乱のあと共立されたのに、九州には倭国大乱の痕跡が見られないなどの矛盾がある
また魏志倭人伝の行程をそのまま地図上で計測すると、邪馬台国は九州の南の大海の中ということになってしまう
両説とも、魏志倭人伝を通読すると決定的な矛盾点がある
これでは永遠の堂々巡りの議論になってしまって当然である

その点で邪馬台国吉備説は通読してみても矛盾点は生じない、むしろ自然な感じを受ける
南方の習俗、植物、動物、温暖な気候、出土されたト骨、倭国大乱の避難用の臨海性高地性集落の跡、楯築遺跡、造山古墳
製塩用の土器、埴輪、特殊器台、上東遺跡、加茂遺跡、、、「邪馬台国は吉備国だった!」を裏付けるものばかりだ

邪馬台国所在地論争も先入観を持たず、魏志倭人伝の通読、考古学上の発見物との整合性、古事記・日本書紀などとの整合性などを
虚心坦懐に分析するべき時期に来ているようだ そうしないと永遠の堂々巡りの議論に陥り、歴史の真実は永遠に明らかにならないだろう

邪馬台国の所在地の確定は日本の歴史にとっても画期的に有益なことであり、虚心坦懐に真実の解明に取り組むべき重大事だろう
現今の曲学阿世の徒が、邪馬台国所在地論争で真実を歪めていることは、見るに耐えないものがある
両説派とも、意図的に真実からミスリードしているさまが、それぞれの書物から見受けられるのは、まことに残念である

このあたりで虚心坦懐に歴史の真実に向き直るべきであろう

2004.11.7ウェブテレビが「吉備 邪馬台国の会」結成!ホームページリリース!


「吉備 邪馬台国の会」
ホームページ 吉備 邪馬台国の会http://www.webtelevi.com/kibiyamatai.htm
吉備 邪馬台国 掲示板 http://atura.jp/bbs/top?bbsid=kibiyamatai
メールアドレス メールkibiyamatai@yahoo.co.jp


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2004.10.29邪馬台国は吉備論者は久保幸三、広畠輝治、薬師寺慎一、若狭哲六、中丸薫、、

2004.10.23地名に見る「邪馬台国は吉備国だった!」説

2004.10.8魏志倭人伝を読むと投馬国のほうが邪馬台国より遠いはず?

2004.10.18倭国大乱は2世紀に瀬戸内で起こり、戦争に疲れ果て、卑弥呼を共立

2004.10.24ジャーナリストの広畠輝治氏の「邪馬台国・岡山・吉備」説の概要

2004.10.13邪馬台国の年代的考察

2004.10.9日差山の歴史と方位と場所

2004.10.16熊山遺跡から大和黄鐘、大王の銅鐸が出土している

2004.10.16郡から邪馬台国まで1万2千里、ソウルから松浦まで6千里、松浦から吉備まで6千里

2004.10.11総社市の岩屋寺の鬼の岩屋と奈良県の明日香村の石舞台古墳がよく似ている

2004.10.6中丸薫 著の「古代天皇家と日本正史」を読むと

2004.10.7古代史家の若狭哲六氏の邪馬台国は岡山県熊山説

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