ウェブテレビ図書館 2邪馬台国研究の歴史



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ウェブテレビ図書館  1目次
ウェブテレビ図書館  2邪馬台国研究の歴史 by れんだいこの邪馬台国研究の歴史
ウェブテレビ図書館  3戦後国債発行史   byれんだいこの戦後国債発行史

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【「日本書紀」神功皇后摂政紀】 
 旧くは、「日本書紀」神功皇后摂政紀における三十九.四十.四十三年条の中で、卑弥呼を神功皇后に見立てたかの記述がなされており、
これを初見とすることができる。魏志に曰くとして、景初三年倭の女王が使いを送ったと記されている。

 その後幾つかの文献に邪馬台国関係の記事が散見されるが、いずれも倭人伝の簡単な紹介で、
暗に卑弥呼は神功皇后であるとした日本書紀の受け売りの域を出ていない。  

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【卜部兼方「釈日本紀」】 
 鎌倉時代に至って、卜部兼方が、日本書紀の注釈書として知られる「釈日本紀」の中で、
「邪馬台国」は「倭=ヤマト」の音をとったものとする説を唱え、幻の邪馬台国と大和朝廷の相関を探っている。
 

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【北畠親房「神皇正統記」】 
 南北朝時代には、北畠親房(1293〜1354)が、「神皇正統記」の中で「卑弥呼=神功皇后説」を主張する等の研究が散見される。
後漢書に曰くとして、「邪馬堆」と記している(後漢書には、「邪馬台国」と記されている)。
全体に「後漢書中心主義」で、この傾向が継承されていくことになる。 

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【頼三陽、松下見林「異称日本伝」】 
 こうして、折に触れて邪馬台国の研究が為されていたようであるが、上記迄の研究と以降のそれを較べれば、
邪馬台国研究の初歩的な考察に留まっている感があり、本格的な学問的研究としては、
江戸時代になってから開始されることとなったといえる。 

 江戸時代に至っては、頼三陽の関心も深く、元禄時代の学者松下見林(1637〜1703年)は、
元禄元(1688)年「異称日本伝」の中で、卑弥呼を「気長足姫尊」(おきながたらしひめのみこと)と推定し、
大和説の立場で考究を加えている。
後漢書倭伝全文を掲載した上で、「邪馬台国は大和国也」と述べている。この「邪馬台=ヤマト=大和」観が継承されていくことになる。
次いで、三国志魏志倭人伝全文を掲載し、「今按ずるに、邪馬台の『壱』はまさに『台』に作るべし」との見解を述べている。
つまり、魏志倭人伝原文は邪馬一国とあるのを邪馬台国の書き間違いとして受け取る。
邪馬台国であれば大和国とも音訳語呂が合うとした訳である。この「壱→台の誤り観」が継承されていくことになる。
 

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【新井白石「古史通或門」、「外国之事調書」】 
 我が国における本格的な邪馬台国研究の先駆者は、新井白石(1657〜1725年)である。
新井白石は、「魏志は実録に候」(仙台藩の佐久間洞巌、1652〜1736)として信ずるに足りる歴史書と見なし、
魏志倭人伝を論及するところとなった。倭人伝に記されている年代や官名、風俗等についても考察し、
白石以前の記事が倭人伝の多くの部分を伝聞であるとして省みなかったのと比べると、はるかに科学的・実証的な研究を行い、
邪馬台国問題を学問の研究対象とさせた。白石の功績はここにある。

 1716(正徳6)年に著わした「古史通或門(こしつうわくもん)」において、
「倭女王卑弥呼と見へしは、日女子と申せし事を彼國の音をもてしるせしなるべし」、「魏志に倭女王奉獻の事の見へしは、
神功皇后の御事とみへけり」とのべており、「卑弥呼=日女子=神功皇后」との認識を示した。

 白石はこの時、魏志倭人伝に登場する邪馬台国へ至る諸国の地名比定を試み、対馬國を対馬、一大国を壱岐、末盧国を
肥前の国松浦郡(唐津市)、伊都国を筑前怡土郡(前原市)、奴国を筑前那珂郡(いまの博多・福岡市)、
不弥国を筑前宇美(糟屋郡宇美町)に比定し、この比定がそのまま今日の定説にもなっている等において功を為している。
ちなみに同書は、投馬国を備前鞆浦に、邪馬台国を大和に比定(「邪馬台国はすなわち今の大和国なり」)しており、
大和説の立場からの考究であったことが伺える。

 但し、同氏は、晩年に至っては、「外国之事調書」において九州説に転じており、投馬国を肥後国玉名郡又は託麻郡、
 邪馬台国を「筑後国山門郡」に比定するところとなった。白石の「筑後国山門説」は、後世の邪馬台国研究に
多大な影響を及ぼすこととなり、今日においても有力な説となっている。ここで留意すべきは、
もともと松下見林が「邪馬台→ヤマト」を引き出すために音訳比定的に「邪馬台=ヤマト=大和」としたのを、「ヤマト」を一人歩きさせ、
それを九州の地の「山門」に当てはめていることである。

 成本氏は「邪馬台国研究の歴史」の中で、次のように述べている。「(これにより、)ヤマトという音が一人歩きを始めたのだ。
以来、明治維新も第二世界大戦も通り越して、邪馬台国が使用されている。教科書はもちろん、松本清張ですら邪馬台国だ」。

 古田氏の「『邪馬台国』は無かった」では、白石は、@・後漢書中心主義、A・見林の「邪馬壱→邪馬台」観、
B・見林の「邪馬台をヤマトと訓ずる」、C・このヤマトを7.8世紀以降出現した大和朝廷に充てる、
D・当初「邪馬台国近畿説、E・後年「邪馬台国九州筑後説、F・詳細に地名比定を試み、
その際「倭音訓読による同音地名による比定」に拠っていたところに特色が認められる。
この方法論がその後の邪馬台国研究の土台となった、としている。
 

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【本居宣長「馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)」】 
 同氏の後を受ける形で邪馬台国の研究に取り組んだのが「古事記伝」の著者で知られる本居宣長(1730〜1801)であった。 
本居は倭人伝の原文を信用せず、独自な解釈を試みている。そういう意味で、「原文の記述を間違いだとする解釈法は
本居宣長に始まった」とも云える。

 同氏は、1778(安永6)年の著書「馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)」の中で距離・方位の問題を中心にして新たな考究を加え、
九州説に立脚して考究を加えた。「その使いの経てきたりけん国々も、女王の都と思ひしも、皆筑紫のうちなりけり」。

 同氏は、「卑弥呼=神功皇后説」を否定し、概要「魏へ使いを出したのは、まことの皇朝(すめらみこと)の御使にはあらず、
筑紫の南の方にて勢ひある『熊襲などの類』が、名声と国威を得ようとして『神功皇后』の御使いと偽りて、私に遣わしたりし使い也」と
論じ、卑弥呼を熊襲のたぐいとする「熊襲偽僭説」を主張した。且つ、その卑弥呼が神功皇后の名を騙って魏に朝貢したとした。

 又、邪馬台国へ至る行程記述である「水行十日、陸行一月」の解釈につき、「梁書」の中で「陸行一月日」とあるのに着目し、
これを引合いに出して、「一月」は「一日」の誤りではないかとする説を唱えた。又、その著「けん狂人」の中で、
新井白石の魏志実録観に対して「非なることおほし」、「非なるをも皆実ならむと思ふはいと愚也」、
「代々の史をかれこれ引合せて、こまかに考えれば、前後相違して合ざることおほく」等々、「魏志を鵜呑みにはできない」との立場を
強調する立場に立った。

 その他邪馬台国論の骨格は、親房―見林―白石の観点を継承している。 

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【幕末の頃の諸研究】 
 こうして今日の邪馬台国論争の骨子は、江戸時代に出された新井白石と本居宣長の説に、
魏志倭人伝の解釈のあらゆる可能性の九割近くが出揃っていた感がある。

 白石、宣長以後は邪馬台国について見るべき研究がなかったが、幕末の歴史学者・鶴峰戊信(しげのぶ、1788〜1859年、
豊後臼杵の神官の家に生まれた)は、1820(文政3)年に「襲国偽僭考」を著わし「熊襲説」を主張し、
邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とした。その際、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の墓を薩摩の国の
可愛陵(えのみささぎ)としている。

 近藤芳樹(1801〜1880年、周防出身)は、1846(征韓起源)年「征韓起源」を著わし、
熊襲が自分達の居住区を邪馬台と呼んでいたことを重視し、氏もまた「邪馬台国熊襲説」を述べた。
但し、邪馬台国の比定地を「肥後菊池郡山門郷」と比定した。

 これらの九州説に対して反論を加えたのが伴信友(1773〜1846))で、1838年「中外経緯伝草稿」を著わし、
大和説をるる述べることとなった。伴信友は、卑弥呼は姫子(ひめこ)を魏の使いが聞き誤ったもので神功皇后の事である、としていた。

 この他、菅政友の薩隅説。

 吉田東吾(1864〜1918年)も又明治26年に著書「日韓古史談」の中で、「卑弥呼は熊襲の女酋である」として、
「九州薩摩姫城説」を唱えた。
 

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【那珂通世の研究】 
 明治時代の前半は,日本古代史研究においては邪馬台国問題よりも,古代の紀年すなわち年代の研究の方に人々の関心は集まった。
明治初年に神武紀元を修正した那珂通世(1851〜1908年)は、「上古年代考」(1878、明治11年)を著わし、
概要「古代史においては年代が 定まらない限り、いかに詳細な記録があったとしても、
それを外国の歴史と対比させて研究したりする事はできない。まず我が国上古の年代をはっきり定めるべきである」、
「卑弥呼の時代は神功皇后の時代とは合致せず、百年ばかりさかのぼる。従来言われてきた卑弥呼=神功皇后説は誤りである」と説いた。
その上で九州説を採用し、邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とし、「邪馬台女王は南九州にいた熊曽の女酋である」との見解を披瀝した。

 これに対し各方面から異論が巻き起こった。ウイリアム・ジョージ・アストン(1841〜19 11)、
バーシル・ホール・チェンバレン(1850〜1935)と那珂道世の間で一大論争が行われ、以後多くの学者が論争に加わった。
 後世これを紀年論争と呼んでいる。 

 那珂道世は、更に詳細な論文『日本上古年代考』(明治21年)を著したが、この紀年論争に関係して、
明治二十年代は邪馬台国論争が華々しく展開された。特に卑弥呼は神功皇后であるや否やを巡って大論争が巻起こった。
論争には、中村正直、久米邦武、阿部弘蔵、橘良平、津田真道、吉田東伍他数十名の学者達が参加している。 
折から日本は、富国強兵の気運真っ直中である。神功皇后の征韓説は事実ではないという論文が出ると
すぐさま国体を無視する ものであると反論が起き、三宅米吉が 「或一部ノ先生達ハ、
年代ノ捜索ナドヲ好マレズ・・・・・・其ノ量見ノ甚狭キヲ惜シムナリ」 などと反論している。
 

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【明治の頃の諸研究】 
 一連の論争の中で、邪馬台国問題研究は発展のきざしをみせていた。

 久米邦武は、卑弥呼を委奴国王であるとし、明治31年(1898)、筑後国高良山上のいわゆる神籠石が発表されたことに着目して、
「筑紫の山門郡説」を唱えた。

 星野恒氏(1839〜1917年)は、明治25年(1892)「日本国号考」で、那珂の「年代論」を取り入れ、神功紀に所見する筑後山門県の
「土蜘蛛田油津媛」の先代こそが卑弥呼であるとして、「筑後国山門郡説」を発表した。この「筑後山門郡説」は、
従来の薩摩大隅説や肥後山門郷説を圧して、今日の比定の大勢により近いものとなっている。

 同年に菅政友が発表した「漢籍倭人伝」では、本居宣長が邪馬台国を筑紫とした事を批判し邪馬台国を薩摩大隅と比定している。
つまり、「大隅薩摩説」を唱えた。彼は,倭人伝に現れる大人を酋長、下戸をその家来と初めて断じた事で知られる。

 吉田東伍は、菅政友の後を受け「日韓古史断」という大作を著し微細に邪馬台国問題を研究したが、
結論は、邪馬台国は熊襲の國都噌於城(今の宮崎県都城)であり、卑弥呼は其の辺りの「日の御子」が大和の倭王と偽ったものである、
というものだった。

 これに影響を受け、那珂通世は『外交繹史』のなかで噌於郡は女王の都スル所であると強調した。これは,神武東遷後大和には
皇朝が成立していたがその力はまだ九州には及んでおらず、神武天皇のふるさと高千穂の峰あたりの
熊襲が魏と交流していたというものであり、『古事記』『日本書紀』の内容を全面的に信用する立場からくる解釈であった。

 この時期は,断片的には取り上げられたりもしたが,本格的には邪馬台国への行程記事に言及したり、
風俗習慣をとりあげて多角的に邪馬台国を捉えようとする試みはまだ少なかった。このようにして、
邪馬台国所在論争は、次第に研究の歩みを進めながら、九州説が大勢をしめていたのが明治時代の実状であった。
 

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【「内藤.白鳥論争」】 
 明治43年(1910年)、この年は「邪馬台国論争」にとって記念碑的な年となった。有名な「内藤.白鳥論争」が巻き起こったのである。
東の、東京大学教授白鳥庫吉が「東亜の光」(6―7月号)に「倭女王卑弥呼考」を発表し、
邪馬台国九州説(「筑後山門」説)を主張したのに対し、西の、京都帝国大学教授内藤虎次郎は、
「卑弥呼考」(芸文.5-7月号)において邪馬台国畿内説を唱え、白鳥.内藤という東西史学の両巨頭による大向こうの論戦となった。
これがいわゆる邪馬台国論争の発端となった。

 白鳥庫吉氏(1865〜1942)は、里程計算により、帯方郡から女王国へ至る「一万二千余里」から
帯方郡.狗邪韓国.対馬.一支.末盧.伊都.奴.不弥国へ至る里数「一万七百里」を差引き、不弥国から邪馬台国へ至る残り里数は
「一千三百余里」であり、又「陸行一月」は「一日」の書き誤りであるとして、この推定を基に邪馬台国を肥後国内に比定した。
「魏志の示す所によりて之を推すときは、耶馬台国は不弥国より一千三百余里に当れば、女王国が大和にあらずして、
九州の地域にあるべきは、亦論を待たず」として、強力に九州説を唱えるところとなった。

 同氏はさらに論をすすめて、「後漢末より三国時代に互りて、倭国即ち九州全島は南北の二大國に分裂し、北部は女王国の所領とし、
南部は狗奴国の版図として、両々相対峙し久しく相譲らざる形勢をなししなり」として、耶馬台国の所在を
九州北部(筑後の国山門郡あたり)に推定し、「女王の都耶馬台国の位置は此の形勢に鑑み、
又魏志に載する所の里数、日数及び行路の状況を参酌して、其全領域の西南部にありしこと、余輩の安んじて断言し得る所なり」として、
肥後國の内にあった筈であると説いた。

 又卑弥呼についても言及し,神功皇后である可能性よりは, むしろ神話上の天照大御神(アミテラスオオミカミ)に近い存在である,と述べている。 
更に,天照大御神と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の関係、高天原における天の安河(アマノヤスノカワ)等についても考察し, 
倭國の大乱等倭人伝の記述と神話上の出来事がよく似通っていることを指摘し、古事記、日本書紀が太古から の
何らかの史実を伝えたものであるとすれば、卑弥呼はまさしく天照大御神として後世に残った可能性があると する。
近年,とみに合理性を増してきたと思われる「邪馬台国東遷説」の萌芽と見ても良い。

 「邪馬台国」の「壱か台か論」については、「台」を受け入れ、これを疑うところは無かった。

 一方、内藤湖南氏(虎次郎、1866〜1934)は、雑誌文芸「芸文」に『卑弥呼考』を発表し,邪馬台国大和(奈良県)説を唱えた。
卑弥呼=倭姫(やまとひめ)説を唱えた上で、九州論者の多くが邪馬台国へ至る行程の「水行十日陸行一月」を、
「水行十日陸行一日」に改めることの非をつき、「軽々シク古書ヲ改メンコトハ従ヒ難キ所ナリ」と述べ 、
あくまで字句通りに受けとめるべきだとして、白鳥説を批判している。

 内藤は、魏志より後の『随書』『北史』に出てくる「邪摩堆(ヤマト)とは、魏志で言うところの 邪馬台である」という記述を受け、
随も今の大和が邪馬台國と看破した証拠であるとし、当時の人口七万戸を擁する程の地域は大和地方以外に考えられず、
「邪馬台国は大和朝廷と理解する外なく」との立場をとった。内藤は,卑弥呼を「倭姫命」(ヤマトミメノミコト)に初めて
比定した事でも知られるが、白鳥に対して加えた数々の批判の方がむしろ有名である。 

 但し、方位については、支那古書が方向を言うとき、東と南とをあい兼ねるが常例であるとして、東と南を一つにし、
西と北とを一つにみるべきというように修正することを可として、邪馬台国を畿内の大和朝廷の祖とした。
内藤説の特徴は、これまでの大和説がヒミコを神功皇后に比定していたのに対して、ヤマトヒメが巫女として、
天照大神に仕えていたという「記.紀」の伝承によって、「天照大神の教に随って、
大和より近江.伊勢.美濃.尾張.丹波.紀伊.吉備を遍歴し、到る所に其の土豪より神戸.神田.神地を徴して神領とした」と
主張するところとなった。

 「邪馬台国」の「壱か台か論」については、「邪馬壱は邪馬台の訛(なまり)なること、言うまでも無し。
梁書、北史、隋書皆台に作れり」としており、「台」を受け入れている。見林説と異なるところは、
史書を三典(梁書東夷伝、北史*国伝、、隋書*国伝)挙げているところが新しい。
(なお、古田氏の「『邪馬台国』は無かった」では、それらはいずれも後漢書の記述を受けたものであり、正確を期しがたい、とある。)

 二人は当時きっての歴史家であり、後の史学界にも大きな影響を与えた史家であるが、この時の二人の論争が、 
九州説と大和説という今日でも延々と続いている学問上の論争の発端となった。
 二人の説の発表後、直ちに邪馬台国問題について論陣がはられた。著名な歴史家、気鋭の研究者達が、
それぞれ 白鳥説,内藤説に共鳴したり批判を加えたりしたが、その論調には一つの特徴があった。 
それは、白鳥説、内藤説の論者達が、完全に東大と京大に色分けされた事であった。つまり、東大の学者達は白鳥説を支持し
邪馬台国=九州説を叫び、京大は内藤説の大和説(畿内説)を擁護した。

 ここに至って,邪馬台国 問題は東大と京大の戦いの様相を呈したのである。このバトルはその後長きに渡って影響を及ぼし、
東大の学者に は九州説論者が多く京大には畿内説論者が多いという、今日でも見られる一つの傾向を生み出す事となった。 
 

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【木村鷹太郎氏の「エジプト説」】 
 興味深いことは、早くも同じ明治43年に木村鷹太郎氏により、「東西兩大学及び修史局の考証を駁す−倭女王卑弥呼地理に就て」が
発表されており、同氏は「エジプト説」を唱える等、つまり三つ巴論争の原形がここに整っていたといえる。
木村鷹太郎氏のエジプト説は奇異な感じがするが、九州、近畿の両説の欠陥を激しく揶揄するところにおいては鋭いものがあり、
今日の水準においてもなお精彩を放っているといえる。こうしてみれば、邪馬台国論争とは、
当初より九州説と畿内説とその他異説との三つ巴の論争として捉えることが史学的であり、
九州説と畿内説との二大論争かの如くに流布することは正確とはいい難く、問題ありと云えるであろう。
 

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【邪馬台国比定諸説】 
 喜田貞吉は、卑弥呼は大和朝廷の傘下の九州の王であったが、魏志倭人伝の編者が卑弥呼の本拠地と大和朝廷のそれとを混同して
不弥国のはるか南に邪馬台国をもってきたとする「折衷説」を唱えた。

 邪馬台国論争が決着を見ないのは、その唯一の資料ともいえる「魏志倭人」伝の方位と里程を記載通りに追証していくと、
それは九州でも畿内でもなく、はるか太平洋上に存在していたことになるという理由に拠る。

 事実、内田吟風の「沖縄説」.松本彦七郎の「ジャワ説」等は、そうした事情を背景に登場してきたものと云えるであろう。
 

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【志賀島金印論争】 
 白鳥・内藤論争の後を受け盛んに論評されるようになった邪馬台国問題だが,明治から大正にかけては 志賀島で発見された
金印を巡っての論争が再発した。稲葉岩吉(1876〜1940)は明治四十四年に著した論 文の中で,落合直澄が唱え三宅米吉が広めた
「漢の委の奴の国王」という金印の呼び方が誤りであると した。この年内藤虎次郎が発表した,
倭面土=委奴=邪馬台=大和(これは全てヤマトと呼ぶ。)説に 基づいて,委奴をヤマトと呼ぶべきだと主張した。
大和説の援護射撃のようなものだろう。これに対し て喜田貞吉(1871〜1939)は,倭面土国は倭奴国と同じものであるという考えは,
ただ発音が似ていると いうだけで何の歴史的な証明もない,と反論した。 二人は, 「稲葉君に質(ただ)す。」
「喜田博士に答ふ。」「稲葉君の反問に答ふ。」と論戦を繰り返 した。これとは別に,中山平次郎(1871〜1956)は,
金印が倭国の大乱のあおりを受けて隠されたもので あるという説を発表した。  

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【大正の頃の諸研究】 
 津田左右吉は、大正昭和にかけて日本書紀・古事記の研究に従事し、『神代史の新しい研究』(大正2年)・
『古事記及び日本書紀の新研究』 (大正8年)・『神代史の研究』(大正13年)・『古事記及日本書紀の研究』(大正13年)等々を著して、
当時の学会に旋風を巻き起こ していた。学会の空気は殆ど、これらの記紀批判で蔓延していたといってもよい。

 大正時代の邪馬台国研究の特徴は、「邪馬台国東遷説」の出現と、考古学者のこの問題への参加であろう。
喜田貞吉も、大正五年「遺物遺跡上より見たる九州古代の民族に就いて」の中で考古学的遺物について言及しており、
卑弥呼の墓を北九州の円墳ではないかと述べているが、大正十年考古学会の例会で高橋健自(1871〜1929)は次のように語って、
考古学者も邪馬台国問題に大いに発言すべきであると主張した。即ち、「邪馬台国問題のようなものは,
文献だけでいくら研究しても解決しない。当然我々考古学者が手を着けなければいけない問題であって、
考古学的に考えないと到底解決には至らない」と。そして、古屋清と富岡謙蔵(1871〜1918)の論文に触れている。

 富岡の弟子であった梅原末治は、大正十年、十一年と発表した論文において、師富岡の説を発展させ、
九州北部の甕棺や銅剣・銅鉾文化と、畿内の銅鐸文化の違いについて述べ、考古学的には邪馬台国は畿内の大和にあったとした。 

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【大正の頃の諸研究】 
 東京大学の哲学者和辻哲郎(1889〜1960)は、白鳥庫吉の九州説を踏襲した。
和辻は、大正9年に著わした「古代日本文化」の中で、邪馬台国九州説を唱え,古事記・日本書紀と魏志倭人伝の記述の一致 を指摘している。
更に和辻は,大和朝廷は邪馬台国の後継者であり,日本を統一する勢力が九州から来たのであり,
その伝承が大和朝廷 に残っていたのだと主張した。彼は伝承のみでなく,邪馬台国の突然の消滅と大和朝廷の突然の出現,
銅矛銅剣文化圏 と神話との一致,即ち古事記日本書紀に銅鐸文化について全く記事がない事,などにも言及し,
神武東征を史実あるい は史実に近いものと考えたのである。この説は,主に東京大学の学者を 中心に支持され発展し続けた。
その後も東大教授のみならず,栗山周一,黒板勝美,林家友次郎,飯島忠夫,和田清, 榎一雄,橋本増吉,植村清二,
市村其三郎,坂本太郎,井上光貞,森浩一,中川成夫,金子武雄,布目順郎,安本美典 ,奥野正男といった幅広い分野の学者達が
この立場に立っている。 私自身も目下の所,この説が一番説得力があり客観性に富むものだと考えている。

 大正時代の終わり頃に提起された考古学的見地から見た邪馬台国論は,その遺跡遺物の多さから邪馬台国=大和説 を唱える者が多かった。
邪馬台国東征説の和辻哲郎に対して,高橋健自は,前方後円墳は日本独自の墳墓であり広 く畿内に分布している事から,
邪馬台国も畿内であったと推論できる,と主張した。              これを契機に,考古学の成果を基にした研究が
あいついで発表される。坪井九馬三,中山太郎,笠井新也,山田孝 男,三宅米吉,白鳥庫吉,豊田伊三美といった論者達が,
考古学関係の雑誌を中心に次々と自説を発表した。中で も、最も論理的に大和説を説いたのは笠井新也であると言われる。 
笠井は、サカムク古墳群の中にある箸墓古墳を卑弥呼の墓であるとし、卑弥呼は倭トト日百襲姫の命(やまととと ひももそひめ)である、
と主張した。これは、現在でも大和説論者に多くの継承者がいる事でその洞察力が窺える。 笠井は、邪馬台国当時は大和朝廷が
すでに日本を統一しており、その政治的な勢力・文化的な影響は九州勢力をも 支配していた、とする。 
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 橋本増吉はこれらの大和説に対抗し、高橋健自の考古学重視を批判した。『歴史学者があまりに識見のみで発言する のも問題だが、
考古学者が遺物に固執してその解釈に依存するのも事実を見えなくする。』などと言って、考古学的 な見地の幾つかに疑問を提示した。
即ち、前方後円墳の成立は考古学者の言うように製作年代が判明している訳では 無い、
畿内の銅鐸文化が九州文化よりも古いと言う確証など何もない、とかの批判を投げた。これに対し梅原末治が 反論したが、
さらに橋本の反撃を受け沈黙した。橋本は、本来邪馬台国問題は魏志に記された記録上の問題であって、
 現在の考古学者は記録など無視し考古学の成果しか見ていない、もし考古学の成果を歴史解釈に用いるのであれば、 
それはその成果が確立不動のもので、何処にも異論のないもので無ければならない。
又、考古学者も、社会学・民族 心理学・人類学・土俗学・言語学・史学等の諸科学と相協力して真理に到達すべきである、と説いた。
 この橋本の反撃は、考古学者達に遺跡遺物のみで判断していた態度を反省させたと、後に井上光貞も指摘している。  

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【昭和の頃の諸研究】 
 安藤正直氏は、昭和2年に今日伊都国起点説と呼ばれる解釈を発表した。魏志倭人伝にいう所の奴国以下邪馬台国までの
行程・方角は伊都 国を起点としている、というものである。 これは以前にも豊田伊三美が唱えたが安藤が大系化した。
即ち、不弥國へは伊都国から東百里、奴国へは伊都国から東南百里、投馬國へは伊都国から南水行二十日、
そして邪馬台国へは伊都国から南へ水行十日陸行一月、という事になる。 安藤氏はこれにより、
邪馬台国を熊本県下益城郡佐俣(さまた)であるとし、その理由として邪馬台の音が[ざまた]か[さまた]でなけ ればならない、とした。

 安藤が氏が「邪馬台国は福岡県山門郡に非ず」を発表したその年に、志田不動麿は「邪馬台国方位考」を著し、
邪馬台国へ至る行程記述を「もし水行ならば十日、もし陸行ならば一月」との解釈法を提起した。志田は安藤の方位解釈に異を唱え、
邪馬台国大和説を主張した。

 白鳥庫吉は「倭女王卑弥呼問題は如何に解決せらるべきか」を発表した。白鳥は、倭人伝の記述に現れる勾玉等の産物に着目し、
この記述は真珠であり昔から真珠は九州で多く採れるものである、と述べた。 

 又太田亮(1884〜1956)は『邪馬台国の発生と其崩潰』を公表した。 太田は邪馬台国を熊本県菊池郡山門郷に比定し、
その理由を邪馬台は[やまと]であるからとし、神武東征によりその呼び名が近畿の大和に残った、とした。
太田は、神武東征などの神代の話を事実でないとする最近の説が、古事記日本書紀等のもつ資料的価値を破壊してしまった、と述べて、
津田左右吉の記紀批判に対抗した。 津田は、大正昭和にかけて日本書紀・古事記の研究に従事し、
『神代史の新しい研究』(大正2年)・『古事記及び日本書紀の新研究』 (大正8年)・『神代史の研究』(大正13年)
・『古事記及日本書紀の研究』(大正13年)等々を著して、当時の学会に旋風を巻き起こ していた。
学会の空気は殆ど、これらの記紀批判で蔓延していたといってもよい。太田の説はこの風潮を諫めようとするものであったが、
 当時としては、神話を否定する空気に対抗するだけの合理性は持ち合わせていなかった。

  昭和3年から5年にかけて、今日「生口論争」と呼ばれる一大論争が巻き起こる。 昭和3年9月に、
中山平次郎は「考古学雑誌」に『魏志倭人伝の生口』を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈 したが、
明くる年の1月、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが
女王から 贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。 
この後、二人の間で毎月のように生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎(生没年不詳)が生口は捕虜であるとし、
沼田頼輔(1867 〜1934)がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎(1864〜1947)は生口論争に加わりこれを奴隷である、とした。
 直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉は、
生口は捕虜を意味しており 奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。
 

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【唯物史観史学の登場】 
 これは日本史研究の中で、新しい研究方向を出現させる事になった。それは唯物史観史学である。 
昭和5年末松保和が発表した二つの論文、『太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文に就いて』と
『魏志倭人伝解釈の変遷-投馬國を中 心として-』は、まさしくその幕開けであった。
 末松は邪馬台国研究史に着目し論を展開したが、自身は「日本古典を全く離れ倭人伝だけを考えると、
邪馬台国=大和説に加担する。」と した。末松は、生口問題は、奴隷・捕虜の問題、財産所有形態の問題、
生産技術の問題に発展すべきであると述べ、このような考察には畏 友羽仁五郎から受けた刺激と暗示が大であったと述べている。
 唯物史観史学そのものの成立は、昭和2年野呂栄太郎(1900〜1934)の『日本資本主義発達史』に始まる。
その後、古代史の分野でもこの史 観に基づく論文が続々と発表される。早川次郎(1906〜1937)の『大化改新の研究』は
邪馬台国問題をこの立場から取り上げた最初の研究と して知られる。禰津正志、渡部義通、伊豆公夫らが後に続き、
これらの唯物史観史学者たちの邪馬台国位置論は大和説に大きく傾いていた。
 末松保和の後を受けた研究は、橋本増吉、伊藤徳男、田村専之助らが引き継いだ。こちらは、邪馬台国九州説が専らであった。
しかしこれ らの史観と関係なしに、邪馬台国大和説もどんどん発表された。
稲葉岩吉、肥後和男、梅原末治、志田不動麿、大森志郎、笠井新也、藤田 元治らが論文を著し、邪馬台国問題と大和朝廷の研究を行った。
  

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【大戦期の閉塞状況】 
 だが、時代は、もはやこれらの研究を大っぴらに行えないような環境に突入していた。
 昭和9年、10年ごろの日本史研究論文にはXXXXXXXXXXで伏せられた部分が実に多い。
渡部義通は、自身の著書の検閲についてこう語って いる。「それにしても、いま漸くにして世の光に浴し得たものは、
見る如く、惨然たる傷痍に損なわれ、殊に後半は、校了の後に至り、文章の 数行乃至数十行を削除して片影を止めず、
文脈の全く巡り難きところさへ数カ所に亘っている。本書の生みの親として、この不幸なカタ ワ児を見るの苦痛は然ることながら、
かかるものを真摯な研究者や読者に提供せねばならぬ苦痛には一層忍び難いものがある。・・・・・・・」(邪馬台国研究史8より) 

 戦前の史学研究には多くの障害が存在していた。下手に論文を発表すると、検閲や不敬罪どころか非国民と呼ばれた時代であり、
為にiずいぶんと不自由な学問分野となった。 

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【戦後昭和期の活況】 
 戦後になると、皇国史観が否定されたことによって、考古資料や外国の文献を用いての日本古代史の研究に
自在が生まれ脚光をあびることとなった。戦前までの邪馬台国研究がどちらかと言えば、
邪馬台国はどこか・卑弥呼は誰かという問題を中心に研究されてきたのに対し、戦後は様 々な方法論による邪馬台国論が発表された。
民族学、考古学、博物学、社会学等の自由な研究方法の進展と相まって、歴史学も又自由を取り戻したと言える。

 昭和25年、藤間生大氏は「埋もれた金印」により九州説を。藤間生大は『埋もれた金印』で、
邪馬台国における王権構造、身分階級制度、社会生産力、共同体国家構造等の問題に触れ、 邪馬台国研究をより深く掘り下げた。
藤間の説は、邪馬台国は王達による卑弥呼の共立で成立した国家であり、はっきりした国家間の隷 属関係などは
まだ無かったというものであった。 この説に、上田正昭や井上光貞、北山茂雄、直木孝次郎らが加わり活発な論戦が行われた。

 この時期、邪馬台国問題は多角的に研究の光 があたったと言ってよい。 
榎一雄、牧健二、橋本増吉、原島礼二、武田幸男といった研究者達による魏志倭人伝の研究も、又新たな解釈や方法論を生み出していた し、
世界史、特に東洋史の中に日本古代を置いて考える方向も、戦前と比べると著しく自由になった。
日本民族は大陸の騎馬民族の末裔 であるとか、天皇家は韓国王朝の流れを汲むとか、
戦前の皇国史観から見ると銃殺ものと思えるような説も自由に発表され世に出た。 

 1952(昭和27)年、和歌森太郎氏は、「私観邪馬台国」で、「陳寿は倭国を南北へ長く伸びた形で理解していた。
彼にとって日本列島は、南北に長い列島だったのである」と述べている。1954(昭和29)年、
肥後和男氏も「大和としての邪馬台国」で、同様の主張をしている。

 井上光貞氏は「日本国家の起源」により九州説を主張した。

 これに対して上田正昭氏は「日本古代国家成立史の研究」で、

 又直木孝次郎氏は「国家の発生」を著わし畿内説を主張した。上田説、直木説は、内藤説の系譜に列なり、
いわゆる京都学派と呼ばれる。

 昭和47年(1972年)に佐伯有清氏により「研究史邪馬台国」の刊行が邪馬台国研究を推進させる大きな力となった。

 その他、笠井新也は日本海航路による邪馬台国畿内説、

 志田不動麿は瀬戸内航路による畿内説。
 

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【榎一雄氏の「放射説」の登場】 
 こうした中にあって、邪馬台国論争史において、衝撃を与えたものとして、榎一雄氏の「放射説」が注目される。
この説には先行して、豊田伊三美氏が「邪馬台国論を読みて」において、「私はこれを以って、
すべて伊都から後のは郡使が伊都で聞いた方向里程国名を挙げたもので、伊都を起点とした里程であると解するのであります」
とする説があったものの、同氏の畿内説の立場及び論証面において簡略であった為に注目されること少なかった。

 榎一雄氏は、1947(昭和22).11月、その著「魏志倭人伝の里程記事について」(「学芸」第33号)において、
九州説の立場から邪馬台国への行程を伊都国を要として放射線状に読むことを論証的に提言し、
賛否両論に分かれたものの斬新な視点を提供するところとなった。榎氏の「伊都国起点放射説」とは、
これまで魏志倭人伝に表われた方位方角と距離の読み方の連続式(この説を直進説又は続進説という)が疑われることなかったのに対し、
伊都国までと、伊都国以降の国々との記述の仕方に相違があることに着目し、伊都国を起点として以下奴国、不弥国へと進む説を云う。

 事実、伊都国以前は方角、距離、国名と順にしるされているのに対し、伊都国以降は方角、国名、距離と記載が為されており、
距離と国名の順序が替わっていることに気づかされる。つまり、奴国以後の国々は伊都国を起点として
読み進められるべきだという訳である。
榎説を採用することによって、これまで距離の点で不利であった九州説が活気づくこととなった。

 「確かに、方法論上の観点からすれば、榎説の意義は更に大きい。なぜなら、従来の邪馬台国研究者は、近畿説と九州説とを問わず、
自説に都合のいいように、ほしいままに『原文改訂』を行ってきた。榎はこれを採らず、『南→東』、『陸行一月→一日』
いずれの改定も行わずに、原文を理解しようとした。ここに榎説が研究史上に占むべき画期的な位置が存在した。このため、
戦後の邪馬台国研究は、この榎の業績を無視しては語れないこととなったのである」(古田武彦「『邪馬台国』は無かった」)。
 

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【「放射説」を廻る諸説の登場】 
 この榎説は、牧健二氏により補強された。つまり、魏志倭人伝では明確に「至」と「到」の使いわけが為されており、
「到」は狗邪韓国と伊都国にのみ使用されている。このことは放射説の正しいことを証明しているという訳であった。

 高橋善太郎氏は、倭人伝中の「至」と「到」の意味を探求し、「末盧国起点放射説」を提出した。
なお、中国の歴史書で直線行程の記述の場合には、又.次.乃などの接続詞の使用、もしくはその他の方法によって、
直線行程を明示しており、これがない場合は直線行程ではないことを証左しているとした。
氏は、末盧国は郡使の直線コースの最後であり、
陸上諸国へはすべて末盧国から出発したものであるとしている。
この説は、張明澄氏中国人の見た邪馬台国論争等中国の学者に支持する者が多い。

 田中卓氏は、榎氏の伊都国中心の放射線説と高橋氏の末盧国中心の放射線説を折衷し、末盧国を含む伊都国という意味で、
「伊都国末盧国起点放射説」を提唱したのである。

 ところで、こうして放射式の読み方は次第に撹拌されて行き、不弥国以前は旅程が里数で表わされているのに、
不弥国以降は日数で記されているところから、「不弥国起点放射説」も現われることになり、安本美典「邪馬台国への道」

 邪馬台国や投馬国など日程で記されている記事は、帯方郡からの日程を示しているのではないかと考える
「帯方郡起点放射説」も出てくるところとなった。堅田直氏は、その著書邪馬台国はどこかにおいて、畿内説の立場からこれを主張し、
坂田隆氏は、その著書卑弥呼と倭姫命において、九州説の立場からこれを主張するところとなった。
 

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【室賀信夫氏の「混一彊理歴代国都之図」例証による方位解釈】 
 同じ様な意味において、邪馬台国の方位の記述を廻っての古地図による考察も衝撃をもたらすこととなった。
1956(昭和31)年、地理学者室賀信夫氏は、その著書「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像−地図学史的考察−」において、
日本を記した古地図においては、日本の地形を北九州を北として日本列島が九州を北として、大和・東北地方を南とし、
北から南へ列なる格好に転倒された形で記載されており、魏志倭人伝の方位もこれに従っているのではないかとの説が
発表されることとなった。
明の建文4年(1402)に朝鮮で作られた「混一彊理歴代国都之図」(以下、「混一図」と表記する。龍谷大学図書館所蔵)が
その証左であり、 「中国の東南海上に南に転倒した形態をとって描かれた日本こそ、魏晋の時代の中国人の日本についての地理的観念を、
そのまま可視的に表現したものである」と主張するところとなった。

 この地図の原拠となったのは「兎貢地域図」(魏.晋に仕えた地理学者裴秀の作)であり、
裴秀は倭人伝の撰者・陳寿と同時代であるので、こうした地理観が当時の一般認識ではなかったか、
つまり陳寿も又これに従っており、従って「南は東に読み換えるべきである」という説となった。この説は「倭人伝」の
「正に会稽東冶の東にあるべし」の記述と適合することとなり、従来方位の点で難のあった大和説が勢いづけられることとなった。

 山尾幸久氏もこの説を補強し、陳寿が倭人伝を編纂する時参考にした地図は、裴秀の「兎貢地域図」、
又はそれを縮小した「地形方丈記」ではないかと想定する説を唱えた。しかし、弘中芳男氏は、
その著書「古地図と邪馬台国−地理像論を考える一」の中で、「混−彊理歴代国都之図」の成立ちを追及し、
この地図が、15世紀の初頭に、朝鮮の権近が、西を上方にして描かれている日本の行基図を不用意に挿入してしまった爲に
日本列島が転倒した形に描かれることになったという由来を解析する等反論されてもいる。
 

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【古田武彦氏の「邪馬一国説」】 
 その意味では、高校教諭(元昭和薬科大学教授)であった古田武彦氏の1969年に主張された「邪馬一国説」も、
研究者に衝撃を与えるものとなった。それまで通説は、例えば、内藤湖南氏の「卑弥呼考」では、
「邪馬壱は邪馬台の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」と、「台」説をとるのが良いとされ、
すんなりと受け入れられて来ていた。

 ところが、同氏は、魏志倭人伝の原文が存在せず、 今日残っているのは全て後世の写本であることを踏まえ、
どの写本が原文に忠実であるかを検証していった。その結果、南宋時代の紹興年間に刊行された「紹興本」後に刊行された
同じく南宋時代の「紹煕本」の方がより正確最良本であると見定めた。その上で、双方が共に「邪馬一国」と表記してあり、
それ以降の「汲古閣本」や「武英殿本」なども同様であり、つまり魏志倭人伝の系譜に連なる諸本は
すべて「壱」と記載されていることに着目した。

 従って、5世紀半ばの「後漢書」(著者はんよう)、7世紀の「梁書」、「北史」、「隋書」等の諸書が
邪馬台国と表記しているのは誤りであると結論した。幾分ややこしいが、三国志の成立は三世紀後半であり、
その底本が残って12世紀に「紹煕本」へと繋がっている。5世紀、7世紀本で訂正するのは、
概要「新しい時期の書物で古い時期の書物の記述を訂正したことになり、これを良しとするのは史学の常道に反する」と批判した。
これを補強して、5世紀に「三国志」に注をつけた裴松之本が存在するが、裴松之は邪馬一国については何の注も加えていないのが、
その証左であるとした。

 これを証明するのに、概要「三国志全体の中に『壹(一)』と『臺(台)』の字の使用例を抜き出したところ、
『壹』の字は86箇所、『臺』の字は56箇所ある。『壹』と『臺』とは一見書体が似ているが、字義が違うので、
『壹』の略字として『臺』が使用されることは有り得ない。実際に、『臺』が『壹』にされたり『壹』を『臺』と
誤記されたものも一つもない。つまり、『壹』と『臺』は峻別されて使い分けられており、
誤用も混用も無いことが分かる」云々と主張した。

 倭人伝における「臺(台)」の意味は、元々「盛り土、高地」を意味していたがこれが転じて
「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」を示している。いわば、「臺」は至高を意味する貴文字であり、
従って、そうした至高文字が東夷の一国に冠されることはありえないと考察する。

 これに対して、「壱(一)」の意味は、「天子に対し、二心無く、相見(まみ)える」意の表現として使われている。
その反対が「二(弐)」の意味で、「同盟からの離脱と他への二股的加入」意の表現として使われている。
従って、悪徳的「二(弐)」の反対語としての徳目的「一(壱)」の意図的使用、つまり意図的に「邪馬一国」、「一与」として
使用されていることをを窺うべきだとする。この観点から「魏王朝に対する、二心無き朝貢」としての往来と盛大な貢物の意味が
理解し得るところとなる、とも云う。

 つまり、概要「『台』と『壱』の旧字は一見似ているが厳密に使い分けられている。その意味するところが違う故に
転写間違いというのは考えられにくい。従って、字形の似ていることによるうっかり転写間違いは有り得ない。
従って、魏志倭人伝原文に邪馬『壹』国とあればその通りに読むべきで、邪馬『臺』国の書き誤りとして読むべきたということにはならない。
邪馬壹国は字句通り邪馬壹国と読むべきだ」という結論に辿り着いた。

 古田氏はこうして、「邪馬台国」と了解する現行の三国志、魏志倭人伝の校訂は間違っており、
「邪馬一国」とするのが正しいという見解を表わすこととなった。氏の説によれば、卑弥呼女王の都とする国は、
「ヤマタイ國」ではなく「ヤマイ國」と読むことになる。もっともそれ以前にも阪本種夫氏、橋本郁夫氏により
このことは指摘されていたが、古田氏の様な考証を伴っておらず注目を受けることが少なかった。

 この古田見解を支持する成本氏は「邪馬台国研究の歴史」の中で、次のように述べている。
「古田氏がこの認識に達したとき邪馬台国論争の時代は終わり、邪馬一国の時代が始まった」。  

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【古田の研究方法】 
 古田説の方法は、中国の文字の用法を厳密に調べ上げてゆくという、今まで誰も試みなかったものであった為、
多くの賛同者を得た。 古田説には、和歌森太郎や佐伯有清、森秀人、小田洋、原田大六らが賛同批判を行った。
古田は、邪馬台国の位置そのものは博多湾周辺 を比定している。

 だがその解釈を巡っては批判も多く、産業能率大学の安本美典は古田説を批判し、対抗して「邪馬壹(壱)国はなかった」を発表した。
この二人は、その後も雑誌の討論、TV討論等でバトルを続けていたが、しかしその後、古田は東北王朝の存在証明に焦り、
 稚拙な偽作問題に関わって歴史家としての信用を失墜してしまう。 

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【古田武彦氏の諸研究を廻って】 
 この古田氏の「邪馬壱説」が学会に与えた波紋は大きく、従来「ヤマタイ」又は「ヤマト」の読み方に従って
「大和、山門」等の音訳地名比定をしてきた基盤が崩れ去ることから、畿内説.九州説いずれを唱える者にも一大事となった。
この説に対しても反駁多く、今だに決着を見ないが、尾崎雄二郎氏の様に、古田説に組しないものの、
「まことにあるかどうか、それを明らかにするのが研究者の仕事ではないのか」と、古田氏の主張の意義を評価する点については
賛同も多い。 邪馬台国か邪馬壱国かその古形を廻っての論争は未だに決着を見ていない。
むしろ、本来の「邪馬台−壱論争」の範囲を超えて、古田氏の果敢に応駁し一歩も退かない姿勢を貫く姿に属人的に
古田氏を支持するものも多く、ある意味で、在野の研究者対学界との対立図式ともなっている感がある。

 私説は、古田説を支持しないが、新井白石.本居宣長氏の研究以来邪馬台国論争は尽くされた感があるにも関わらず、
榎氏の放射説同様云われてみれば明白初歩的なことに対し、これまで研究が為されていなかった不思議さを
焦点にしたということにつきこれを高く評価するものである。こうしてみれば、まだまだ邪馬台国論争は曙の感を深くせざるを得ず、
大御所としての学界の権威に揺さ振りをかけることに成功した点にこそ功績が認められるべきであろう。
 

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【その後の諸研究】 
 又安本美典氏は、「数理文献学」という独自の方法を用いて、卑弥呼を「天照大神」する説を打ち出した。
安本氏は、早くからコンピュータを日本古代史の分野に持ち込み、地名の残存度や天皇の在位期間の割り出し、
古代日本の日食と天照大神 の岩戸こもりとの関係、などを解明しようと試みており、その論旨方法は、今日、又多くの賛同者を得ている。
 安本は、現在も残っている地名は約1、000年の残存度を持っていると様々なデータを持ち出して説明し、
奈良地方と福岡県甘木朝倉 地方の地名の酷似に注目している。又、邪馬台国東遷説の立場に立ち、卑弥呼は天照大神であるとする。
PCの天文ソフトを使用して、 卑弥呼の死の前後2回にわたり皆既日食があった事を推論し、
これが天照大神の岩戸こもりの伝承となって残っているのではないかと述 べている。

 あるいは、鈴木武樹氏は、唐代の「翰苑」という本に書かれているように「邪馬嘉国」が正しいという「ヤマカ國説」を唱える等。

 さらに云えば、女王卑弥呼の読みにおいても「ヒミコ」、「ヒメコ」、「ヒメゴ」等々の諸説が為されることになった。

 冨久隆氏は魏志邪馬台の位置に関する考察で、邪馬台国に至る水行は川を航行することだと主張した。

 山尾幸久は、「日本古代王権の成立過程」において、放射説によって伊都国から「水行十日陸行一月」で
大和へ行き着けるという大和説を唱えた。

 又立石巌は「邪馬台国新考」において、九州から黒潮を用いた航路で邪馬台国「熊野畿内説」を唱えた。

 熊坂利雄氏は「北陸説」を唱えた。
 

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【諸分野の権威からのアプローチ】 
 こうしたなかにあって、歴史学者だけでなく小説家による著書も出版され話題を提供するところとなった。
古くは横光利一氏(1798〜1947)が、大正12年に「日輪」を発表、彼の出世作となった。

 松本清張氏による「古代史疑」、「邪馬台国を探る」は著名な推理派小説家によるアプロ−チという点で評判を呼んだ。
1966年昭和41年に、中央公論に連載が始められた。68年3月に刊行された。
 

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【宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」、「海岸線の復元思考」】 
 昭和40年代の頃、盲目の詩人宮崎康平氏による「まぼろしの邪馬台国」も著われ、邪馬台国ブームを盛り上げることとなった。
古代史、特に邪馬台国問題はそのロマン性と郷土身びいきとが重なって、多くのいわゆる古代史家や郷土史家達を生ん だ。
長崎県島原半島に住む、島原鉄道の重役宮崎康平が出版した『まぼろしの邪馬台国』は、
著者個人が盲目であるという話題性もあっ て大ベストセラーとなった。それ以後はまるで邪馬台国祭りとでも言うような
出版ブームが続いた。

 宮崎康平氏による「海岸線の復元思考」は一石を投じた労作であった。地質学の研究成果を取り入れて、
現在の海岸線と邪馬台国時代のそれを区別することの肝要さを説き、仮に弥生海岸と名付けられたそれは、
現在の地図でいう等高線の五〜十メ−トル辺りの範囲はかっては海域であり次第に陸化していったものであることを強調している。
その著書「幻の邪馬台国」の該当部を抜粋すると、「現在の加布里付近から今津湾までは完全な海峡で、
大きく云って、博多湾と唐津湾はつながっていたのである。この海峡のことを地質学では糸島水道とよぶのだそうだ。
----九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門的な地質学の立場から作成された、
弥生期の博多湾一帯の地図があるので、これによって記入された弥生線と現在の町の関係を比較してみると、当時の様子がよくわかる。
おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えてもいいだろう云々」。残念ながら、こうした労作にも関わらず、
学会としては旧態依然の比定論争が繰り広げられていることは惜しまれる。   

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【高木彬光氏による「帆船航路による神湊到着説」】 
 同じ様な例として、高木彬光氏による「帆船航路による神湊到着説」も注目される。
氏も又、自然地理学的な事実の認識の重要性を指摘し、魏の使節が訪れた時期の考察と使節が乗ったと思われる船と
その航路の推測に情熱を傾けている。曰く、対馬海峡、壱岐水道を経て北九州の海岸線の何処かに辿り着こうとする場合、
現在の汽船であれば、望むなら直線コ−スをとることはできるが、当時の使節を載せた船は漕ぎ船又は帆船又はその併用型と想像され、
この場合は順風に恵まれ、ごく近距離を航海する場合は別にして、普通は直線コ−スをとれない。
特に決まった両地点の間を航海するというような時には、距離の伸びが当然のことになってくる。
風向きの都合に左右される訳である。注意せねばならぬことは、今日においても朝鮮から北九州を経る水域は、航行が容易ではなく、
経験的な知識を集積して、もっとも航海条件のいい順路を選ぶことが肝心となる程に風と海峡の流れの測定が
大事な水域であるということである。赤道から日本に向かって北東に流れる海流は、九州本土にぶつかって黒潮と対馬海流に分かれる。
古代の人々の航海感覚からすれば、かなりな激流を踏破する感じであったと推測される。
現在でも風速が秒速15メートルの風となって来ると忽ち遭難の危険にさらされる。風速が秒速8メ−トルを越すと
帆船の航行は危険にさらされる。史上元冦の二度の失敗が玄界灘の大暴風雨襲来に曝された歴史的事実を思い起こすとよい。
魏の使節を載せた船は、適宜な季節の好き日をみはらかって「吹送流」(西または西南の風が吹くと
風が海流の表面を後押しするような流れの現象となる)の助けを借りてやって来たに違いな
 
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