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●魏志倭人伝の帯方郡から倭に至る行程の表記
1、帯方郡から一支国(いきこく)=壱岐島までは大和論者、九州論者ともに異論がないので省略
2、又一海を渡ること千余里にして末慮国(まつらこく)に至る
3、東南に陸行すること五百里にして伊都国(いとこく)に至る。
4、東南、奴国に至るには百里。
5、東行、不弥国(ふみこく)に至るには百里。
6、南、投馬国(とうまこく)に至るには水行二十日。
7、南、邪馬台国、女王の都する所に至る。水行十日、陸行一月。
九州論者は伊都国(いとこく)から放射状に方角、距離を測って、国に場所を比定する人が多いようだが上記の文を読むかぎりでは
初めての上陸地点の佐賀県の松浦半島からの方角、距離と理解すべきだろう
3の伊都国(いとこく)は、(いとこく)ではなく(いずもこく)と読むべきだろう、よって島根県の出雲市
4の奴国は九州
5の不弥国(ふみこく)は九州
6の投馬国(とうまこく)は但馬国、現在の兵庫県、大阪府、昔は奈良県の天理市も丹波市と呼ばれていたように但馬国に入っていた
距離的ににも吉備(広島県東部+岡山県+香川県+鳥取県の一部+島根県の一部)より九州から遠い位置にある
7の邪馬台国の水行十日、陸行一月の理解の仕方は水行で十日かかる、陸行だと一月かかると理解すべきである
大和論者は水行で十日のあと陸行で一月かかると理解しているようだが、不自然な理解の仕方と言わざるを得ない
魏志倭人伝は魏の役人の王への報告書、また次回に邪馬台国に行く場合の参考資料であり、もし水行のあと陸行一月かかるのであれば
当然、水行十日、後、陸行一月と表記するだろう
他の国の距離、日数表記もすべて松浦半島からの距離、日数という表記であり邪馬台国だけが水行地点から陸行一月かかると
理解するのは他の諸国の表記と比べてみて、おかしいと言わざるを得ない
また方角が南となっている点については、昔の古地図を見ると日本列島が朝鮮半島から垂れ下がっているような表記が見られ
邪馬台国、投馬国ともに南の方角にあると理解していたものだろう
よって邪馬台国(戸数七万)は吉備国、投馬国(戸数五万)はその先にある但馬国、丹波国、現在の兵庫県、大阪府、奈良県、
などの場所と比定できる
伊都国(いとこく)は当時も強力な国だった出雲に比定できる 人口の多さ、一大率という強力な組織があることを考えると
島根県の出雲周辺ということになろう また吉備国の新羅との交易ルートは鳥取県米子市周辺にあったものと考えられ
出雲と吉備は深く、密接に関わっていたということが言えるだろう
魏志倭人伝に表記されたクス、シイ、タブ、カシ、カエデ、、、などの植物は大阪以西の地で生えているもので
奈良盆地には生えていない植物も表記されている この点からも邪馬台国大和説という主張には無理があると言わざるを得ない
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