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その中丸薫女史が2004年9月30日に新作「古代天皇家と日本正史」という本を出した
白い表紙に金色の16菊の紋章が浮かび上がった本だが、内容は従来の日本の歴史の通説をくつがえす驚天動地の本である
学校の歴史教科書を書き直さなければならないといった驚異の内容だが、主に日本という国をグローバルな視点から見直し
朝鮮半島、中国、モンゴル、ペルシャ、、、などとの関係から、あるいは朝鮮、中国の歴史との整合性から日本の歴史を
改めて再構築したものである
従来の日本の歴史は江戸時代に鎖国があったせいか?諸外国との歴史との関係性が薄く、日本独自の完結型になっていたきらいがあるが
この本は古代からの朝鮮半島との交流の歴史、深いつながりなどから説き起こし説得力のある内容になっている
現代日本でも他国との交流、輸出、輸入、移民などは当然数多くあるが国際関係性の上に国が存立することは当たり前である
江戸時代が鎖国という特異な状況におかれた特異な時代であるが中丸薫女子は古代からの国際関係の中の日本という視点から
見事に日本の真実の歴史を活写している 天晴れという他ない
その本の中で当然、邪馬台国に関する記述、所在地についても鋭い指摘をしている
第6章の「ついに倭国の謎を解明する時が来た!」の「邪馬台国と新羅の密な関係は、故意に隠されている」の項の中に
「新羅と深く関連している以上、邪馬台国の場所は九州や大和地方ではなく、歴史的に新羅の影響が強かった地域になる。
さらに海岸近くであるならば、大きな候補があるが、これは後の章で言及する」と書いてあり
その後の章では新羅と吉備国の深い関わり、とくに製鉄をめぐっての深い関わりについてさまざまな角度から言及している
第12章「日本とはなにかーーそれはペルシャ・シュメールへの回帰なのか」の「新羅王は壬申の乱に介入していた」の項に
「吉野のあった大海人こと蓋蘇文は、吉野を出発する2日前に、東国に移住していた百済勢と近江朝の連絡を遮断するために、
不破道を塞ぐ命令を発する。筑紫、吉備という西南の主要地は、壬申の乱、以前から大海人側で、新羅の金押実の
2万の軍勢が吉備で大海人(蓋蘇文・天武)を助けている。」との記述があり吉備と新羅の深い関係を指摘している
2万の新羅勢が忽然と現れたのは現在の都窪郡真備町の二万という場所であると地元では言われている
ちょうど朝鮮式山城のある総社市「鬼の城」のやや西にあたる高梁川の西の台地にあたる場所が二万という土地である
その他、中丸薫女子は数々の例を引いて吉備を新羅の深い関係について示唆している が、直接的な表現で
「邪馬台国は吉備国」とは著述はしていないようだ
中丸薫女史の場合は歴史的書物、中国語の文献、朝鮮半島の歴史書、要人の示唆などから、著述したものだから
実証性、現場性において、やはりある程度の限界がある
中丸薫女子の説も参考にしながら、現場にある優位性を生かして、歴史の真実に肉薄して行こう
最近はハイキングコースとして整備され日差山から西の仕手倉山(223メートル)や南の高鳥居山まで道が整備されている
頂上の巨石をイワクラとした古代祭祀あとが現在は天台宗の日差寺となっているが以前は老尼が一人いたが現在は無住である
位置的には東に楯築遺跡、北に造山古墳(日本で4位の大きさ、全長360M,幅23M,高さ27M)と等距離にある
地元の伝承では夜見山彦と夜見山姫という豪族がずーっと昔に住んでいたという
東にある楯築遺跡は岡山大学の近藤義郎教授の考古学チームが発掘調査していろんな発掘物(石棺、朱)などが出てきたが
同じような石の墓は日差山に多く見られるがなんせ場所が広大なため調査ができなかったという、赤いペンキで印だけつけてる例もある
楯築遺跡の石棺は九州の石で出来たもので中から歯が出てきたが女性の歯だったという 九州との交流をうかがわせる
庄パークヒルズの団地工事では楯築遺跡周辺から白骨が多数出てきたそうだが工事を急ぐため処分したという
それらの白骨が出てきた部分から測定するとちょうど大きさは百余歩になる

日差山がなぜ邪馬台国なのか?その理由はいろいろあるが
1、遠方から見る景色がほぼ台形(とくに東から見ると牛が寝そべっている景色、古代には、うし山と呼ばれていた)
2、3世紀に出来た最大の墓は楯築遺跡、3世紀に一番勢力のあったのは邪馬台国の女王の卑弥呼
3、楯築遺跡から出てきた石棺から女性の歯が出てきた(卑弥呼の歯?)
4、楯築遺跡は写真にあるように巨大な屏風岩が供え物を入れる石、王の椅子などの形状の巨石があり行政府があった
5、日差山に比べ楯築遺跡は低地にあり、当時は海の中で小さな島であったと思われる、舟による交通の便利がよかった
6、楯築遺跡の東に吉備の中山があり現在は吉備津神社がある、距離的には日差山と吉備の中山の中間地点に楯築遺跡がある
7、楯築遺跡の南に上東遺跡があり、数多くの粘土製の出土物が出ており古代の集落があった
8、日常の行政は楯築遺跡で、普段の生活は天然の山城の日差山でというようにしていたものと思われる
9、地図上で北には岡山県の落合町、湯原町、鳥取県の関、倉吉市、大栄町がある
10、地図上で西に直線上に元伊勢伝説がある弥高山がある
11、新羅との秘密の直結路として高梁川沿いに総社市、高梁市、新見市、鳥取県米子市(淀江廃寺がある)が活用された
12、高梁川の上流部に昔から鉄の鉱山があり高梁川の砂場で磁石を使うと砂鉄が多く採れる
13、総社市の阿蘇地域で昔から製鉄業が盛んで武器や農具を作っていた、製鉄の際の赤ら顔を鬼と言われた
14、総社市の鬼の城に温羅(ウラ)の伝説があり、温羅は百済の王子で鬼と呼ばれていた
15、温羅は大和からやってきた吉備津彦に退治されたという伝承があるが吉備に強大な国があったということをうかがわせる
16、日差山山中に神宮皇后に関わる遺跡、またふもとには神宮皇后が舟をつないだ遺跡、双子を産んだという伝承などがある
17、吉備津神社の吉備という文字は福井県敦賀市の気比神宮の元になった文字で岡山県の吉備と福井県の越は深い交流があった
18、日差山の北部に上房郡の賀陽町(かようちょう)があり、韓国の伽耶(かや)との関係を連想させる
19、古代の吉備の祭祀の中心地は岡山県の西北部の川上町の穴門山神社だが元伊勢伝説があり裏の洞窟に鏡が祭られていた
20、岡山県の西北部の広島県との境の哲西町に荒戸山、荒戸神社がある、新羅ゆかりの荒、穴などの地名がある
21、古代吉備国は南は讃岐の香川県、西は安芸の広島県、東は備前の岡山県の東部、北は島根県の伯き、までの広大な領地
22、讃岐、安芸、伯き、など吉備国の領地の末語は「き」という言葉になっている
23、魏志倭人伝の投馬国は広島県の鞆、または岡山県の玉野市の玉 玉姫神社がある
ざーと書いてみると以上のようなことが考えられるがもとより浅学非才、重々承知はしているが、一つの問題提起として
あえて「邪馬台国は吉備国だった!」を主張したい
まだまだ検証作業が進んでいない面もあるがご意見、ご批判はご遠慮なくメールwtfront@yahoo.co.jpまでお寄せください
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