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yamatai/041015.htm

ウェブテレビが世紀のスクープ!「邪馬台国は吉備国だった!」


ウェブテレビが遂に世紀のスクープ!長らく邪馬台国の所在地をめぐって、やれ大和だ、やれ九州だ、やれ出雲だ・・・・
日本各地で「ここが邪馬台国だ」という論争が続いていたが遂に決定打!「邪馬台国は吉備国だった」が出た

結論から先にいうと、邪馬台国は吉備国、邪馬台国の女王の卑弥呼は神宮皇后で墓は岡山県倉敷市の楯築遺跡
邪馬台国の女王の卑弥呼のいた居館は倉敷市の日差山にあった、応神天皇の墓は岡山市の造山古墳 ということになる
邪馬台国は吉備国で、伊都国は出雲、狗奴国は高知、南九州と比定している
詳しくはウェブテレビの「邪馬台国は吉備国だった!」のページ
項目別の詳細はウェブテレビの速報インデックスのページ

調査手法は現場の実地調査と古文献、とくに魏志倭人伝との整合性に重きを置いた
実地調査場所は岡山県倉敷市の楯築遺跡、倉敷市の日差山、倉敷市の両子神社、岡山市の造山古墳、作山古墳、吉備の中山、吉備津神社
総社市の鬼の城、岩屋寺、岡山県熊山町の熊山遺跡、玉野市の出崎半島、倉敷市の王子が岳、笠岡市の応神山
奈良県天理市の石上神宮、桜井市の大神神社、明日香村の石舞台古墳、鳥取県の淀江廃寺、島根県の出雲大谷遺跡
その他、広島県の福山市、兵庫県の姫路市、香川県の高松市など関係箇所を調査した

調査した古文献は主には魏志倭人伝、その他は漢書、広開土王碑、宋書、隋書、旧唐書、新唐書、古事記、日本書紀などを参考にした

詳細はウェブサイトにアップしたがタイトルを書き出すと
地名に見る「邪馬台国は吉備国だった!」説

魏志倭人伝を読むと投馬国のほうが邪馬台国より遠いはず?

「広畠輝治著 「邪馬台国」岡山・吉備説から見る古代日本の成立の目次」

「邪馬台国所在地論争 比定地と論者」

「ウェブテレビが「吉備 邪馬台国の会」を結成!ホームページをリリース」

「ウェブテレビが「吉備 邪馬台国の会」を結成!ホームページをリリース」

「邪馬台国の所在地論争、大和説・九州説、批判」

「邪馬台国は吉備論者は広畠輝治、薬師寺慎一、若狭哲六、中丸薫、、、」

「ジャーナリストの広畠輝治氏の「邪馬台国・岡山・吉備」説の概要」

「地名に見る「邪馬台国は吉備国だった!」説」

「邪馬台国は吉備国だった!」

「倭人はみな裸足である、奈良盆地の冬は寒く、裸足では無理」

「邪馬台国の年代的考察」

「女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある」大和説はありえない」

「総社市の岩屋寺の鬼の岩屋と奈良県の明日香村の石舞台古墳がよく似ている」

「吉備の原義は魏から取った鬼委 きい きび 吉備になった」

「日差山の歴史と方位と場所」

「魏志倭人伝を読むと投馬国のほうが邪馬台国より遠いはず?」

「郡から邪馬台国まで1万2千里、ソウルから松浦まで6千里、松浦から吉備まで6千里」

「古代史家の若狭哲六氏の邪馬台国は岡山県熊山説」

いろんな調査をした結果、邪馬台国は吉備国、邪馬台国の女王の卑弥呼は神宮皇后で墓は岡山県倉敷市の楯築遺跡という結論になった
興味がある人はウェブサイトを見てください まだまだ新資料をアップしていく予定にしています


邪馬台国の基礎知識


●日本史年表 日本歴史大辞典編纂委員会 河出書房新社による
57年1月 倭奴国 後漢の光武帝に貢して「漢委奴国王」印を与えられる
107年 是年 倭の国王 師升ら、後漢に生口160人をおくり謁見を求める

188年 是年後漢の桓帝・霊帝の間(147〜188)光和年中(178〜183)倭国乱れて攻伐続き、ついに卑弥呼を擁立して女王とする

238年 是年(呉の赤鳥元年)の銘のある鏡 甲斐国西八代郡の古墳から出土する

239年6月 卑弥呼、使人難升米らを魏に派遣し男生口4人 女生口6人 その他を献じる

239年12月 魏王、卑弥呼を親魏倭王となし、金印紫授を与えられ銅鏡100枚などの好物を下賜される

240年 是年(魏の景初3年)の銘のある鏡 和泉国泉北郡黄金塚から出土する
240年 是年 帯方太守弓避、魏の詔書印綬賜物をを倭国に送付する
240年 是年(魏の正始元年)の銘のある鏡 但馬国出石郡・上野国群馬郡の古墳から発掘される

243年 是年 卑弥呼、魏王に使者を派遣し生口その他を贈り使者の液邪狗らは率善中朗将の印綬をもらう

244年 是年 (呉の赤鳥7年)の銘のある鏡 摂津国川辺郡の古墳で発掘される
245年 是年 魏の斎王、邪馬台国の使者難升米に黄ばくを与える

248年 是年 魏の正始年中(240〜248)卑弥呼の死後男王が立ったが国中治まらず 壱与立って治まる

265年 是年 西晋の泰始初年(元年=265)邪馬台国の女王壱与 使者を西晋に派遣して入貢する

340年 是年 百済王、太子を送って人質とする
366年 是年 百済との通交を約束する
367年 是年 百済から初めて使来る
391年 是年 倭国 朝鮮に出兵し百済・新羅を攻め臣にする

392年 このころから応神天皇
393年 是年 倭軍、新羅の玉城を攻める
404年 是年 倭軍 帯方の地に侵入し高句麗軍と戦って敗退する
418年 是年 東晋の安帝の時(357〜418)倭国 東晋に使をやって方物をすすめる

421年 是年 倭王讃(仁徳?) 宋に朝貢し武帝に安東将軍倭国王の称号を受ける
438年 是年 倭王弥(珍) 宋に物を贈り安東将軍の称号を与えられる
443年 是年 倭王済 (尤恭?)宋に物を贈り安東将軍の称号を与えられる
451年 是年 倭王済 宋から使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の称号を与えられる
462年 是年 倭国王興 宋より安東将軍倭国王の称号を授けられる
478年 是年 倭王武 (雄略?)宋に上奏文を送り高句麗を討つための援助を求める 武 六国諸軍事安東大将軍に任じられる
479年 是年 倭王武 斉の高帝より使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の号を授けられる

●魏志倭人伝とは?
魏の国の後継の西晋の著作朗という役職にあった陳寿(233年に巴西郡安漢県=現、四川省南充県で生まれ297年に死去)が
職務により三国志を書き、その中に魏書巻三十東夷伝倭人条に邪馬台国・卑弥呼・風俗・位置などについて詳しく書いてある

素材は魏王朝の倭国との公的な外交の記録、卑弥呼の使者の難升米などとの質疑応答の記録、魏から倭に派遣された使節の復命書
倭国に関する先行の史書(魏略など)であり、それらから総合的に編集したものが魏志倭人伝である
魏王の命令で、作られた官人の作だけに内容は比較的に正確なものと見られている

当然に漢文で書かれており、全部で2008文字になり他国(朝鮮半島の韓など)に比べ、非常に詳しく書かれているという特徴がある
三国志はその後、人々によって筆写されたが、11世紀以降に歴代王朝によって木版本が刊行された 
木版本にはいろんなものがあるが、よく使われているのは12世紀中葉に南宋で刊行された紹興本がよく使われているようだ

魏志倭人伝の原文対比型の全文和訳
安本美典の魏志倭人伝の全文和訳

●魏志倭人伝の帯方郡から倭に至る行程の表記

1、従郡至倭循海岸水行歴韓国乍東到其北岸狗邪韓国七千余里

1、郡より倭に至るには、海岸に従いて水行し、韓の国々をへ、あるいは南しあるいは東し、
倭の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に至る。ここまでで七千里余り。

2、始度一海千余里至対馬国

2、はじめて一海を渡ること千余里にして対馬国(つしまこく)に至る。

3、又南渡一海千余里名日翰海至一大国

3、又南に一海を渡ること千余里、一支国(いきこく)に至る。

4、又渡一海千余里至末慮国

4、又一海を渡ること千余里にして末慮国(まつらこく)に至る

5、東南陸行五百里到伊都国

5、東南に陸行すること五百里にして伊都国(いとこく)に至る。

6、東南至奴国百里

6、東南、奴国に至るには百里。

7、東行至不弥国百里

7、東行、不弥国(ふみこく)に至るには百里。

8、南至投馬国水行二十日

8、南、投馬国(とうまこく)に至るには水行二十日。

9、南至邪馬台国女王之所水行十日陸行一月

9、南、邪馬台国、女王の都する所に至る。水行十日、陸行一月。

10、自郡至女王国万二千余里

10、帯方郡から女王国まで1万二千余里ある。

2004.11.15邪馬台国所在地論争 比定地と論者


邪馬台国の所在地をめぐっては、江戸時代から九州説の本居宣長から大和説の新井白石などの論争から始まり、
いまだに決着を見ていない 比定地も150箇所以上にのぼり、論者も無数に上るが有名どころの名前を紹介してみよう

◆邪馬台国 吉備説
久保幸三 広畠輝治 薬師寺慎一 若狭哲六
◎久保幸三(ジャーナリスト)岡山の吉備津・日差山周辺が邪馬台国の本拠地、卑弥呼の墓は楯築遺跡、投馬国は但馬、狗奴国は高知
◎広畠輝治(ジャーナリスト)岡山・香川・広島東部が邪馬台国の領域、蒜山高原が高天原、狗奴国は大和
◎薬師寺慎一(古代祭祀研究家)吉備津神社周辺が邪馬台国の本拠地、楯築遺跡が卑弥呼の墓
◎若狭哲六(古代史研究家)岡山県東部の備前市・熊山町にまたがる熊山が邪馬台国の女王の卑弥呼の終焉の地

●邪馬台国 大和説

●1、邪馬台国 大和朝廷同一説 
松下見林 新井白石 伴信友 橘良平 稲葉君山 内藤湖南 富岡謙蔵 梅原末治 高橋健二 笠井新也 森田元春 和歌森太郎

●2、大和朝廷九州発生 邪馬台国大和朝廷同一説
日本書紀の編者、片山正夫 中山平次郎 肥後和男 原田大六 

●3、邪馬台国 大和朝廷断絶説
小林行雄 直木孝次郎 上田正昭 
◎田辺昭三(東京造形芸術大学教授)畿内大和川流域、天理市から三輪山一帯、箸墓、石塚山が邪馬台国

●4、九州勢力による畿内邪馬台国打倒説
鳥越憲三郎

★邪馬台国 九州説

★1、邪馬台国 大和朝廷独立並行説(襲国偽潜説、九州王朝説)
本居宣長 鶴峰戊辰 近藤芳樹 吉田東伍 那珂通世 星野恒 菅政友 久米邦武 白鳥庫吉 喜田貞吉 古田武彦 
◎武光誠(明治学院大学助教授)福岡県筑後川流域が邪馬台国、狗奴国は肥後国北部 奴国は博多湾 弥奴国が吉野ヶ里
◎関祐二(歴史作家)卑弥呼の女王国の九州王朝(天皇家の祖先)がヤマトと偽潜して親魏倭王の印を取得、畿内ヤマトと合併した

★2、邪馬台国 大和朝廷同一起源説
坂本太郎 橋本増吉 太田亮 植村清二

★3、邪馬台国と大和朝廷の不連続説
津田左右吉 藤間生大

★4、投馬国東遷説 狗奴国東遷説
牧健二 水野祐

★5、騎馬民族征服説
江上波夫

★6、邪馬台国東遷説
和辻哲郎 栗山周一 飯島忠夫 和田清 榎一雄 市村其三郎 井上光貞 金子武雄  森浩一 
◎奥野正男(宮崎公立大学教授)佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡や福岡県甘木市平塚川添遺跡を含む筑後川北岸が邪馬台国
◎黒岩重吾(作家)福岡県甘木市、久留米市、八女地方が邪馬台国 投馬国は出雲 不弥国は福岡県宇美町 伊都国は前原町
◎安本美典(産業能率大学教授)福岡県甘木市、夜須町付近が邪馬台国 卑弥呼の墓は甘木市大塚 邪馬台国が大和に移動

★7、具体的な場所による説 
◎久保雅勇(画家)佐賀県吉野ヶ里が邪馬台国、伊都国は筑後川の東、斯馬国は糸島半島、吉野ヶ里の日吉神社の鳥居周辺が卑弥呼の墓
◎安藤輝国(古代史研究家)大分県宇佐市 宇佐神宮、安心院周辺が邪馬台国 宇佐氏は卑弥呼の末裔 宇佐神宮亀山が卑弥呼の墓
◎渡辺豊和(京都造形芸術大学教授)熊本県阿蘇神社周辺が邪馬台国、伊都国は小城町、投馬国は長崎県雲仙岳周辺、狗奴国は宮崎県高千穂
◎荒巻義雄(作家)有明海の東岸・福岡県山門郡が邪馬台国 狗邪韓国は福岡 卑弥呼の居館は阿蘇山のどこかにあった

■邪馬台国 その他
 移動海商連合国・佐治芳彦 四国阿波説・岩利大閑 静岡県下田説・肥田政彦
◎大川誠市(源初漢字・古代史研究家)出雲が邪馬台国 伊都国は福岡 不弥国は遠賀川周辺、投馬国は萩周辺
◎大杉博(古代史研究家)徳島県神山町山上が都 卑弥呼の墓は徳島市の八倉比売神社 投馬国は高知 狗奴国は徳島東部
◎小林恵子(古代史家)奄美大島が邪馬台国 2世紀後半から3世紀にかけて北九州の伊都国に本拠を置いた邪馬台国に移動した
◎木村政昭(琉球大学助教授)沖縄が邪馬台国 伊都国は佐賀県大和町 奴国は佐賀平野 不弥国は久留米 投馬は薩摩
◎岡田英弘(東京外国語大学名誉教授)中国晋朝狂言説・魏志倭人伝は偽書、邪馬台国は架空の国

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