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このページは 日本の歴史について書いてみよう

人類の誕生から、旧石器時代、新石器時代、縄文時代、弥生時代


古墳時代、、、、日本列島の古代史を年表から見てみましょう


年表的に日本の国の歴史を追って見ましょう


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●日本史年表 日本歴史大辞典編纂委員会 河出書房新社などによる

この色は日本史

この色は中国史、朝鮮史

BC紀元前


BC6500万年前  人類や類人猿などが属する霊長類が登場 現在の人間の身体機能の8割が完成 遠近を見極める目、立ってバランスをとる平衡機能
BC500万年前 チンパンジーなどの類人猿との共通の祖先から人間が枝分かれ
BC250万年前 石器を使うようになった 原石を打ちかき、石核という中心部分を使った石器
BC60万年前 言葉を話し始めた
BC30万年前 石を小さく割って出来た剥片などをナイフとして使うようになった
BC10万年前 現生人類の祖先がアフリカに登場
BC8〜5万年前 日本列島に遺跡が現れる
BC5万年前 旧人のネアンデルタール人が仲間の埋葬を始める


●2008年8月5日(火)●

最新DNAの研究などから、現生人類(新人)の祖先は10万年前くらいにアフリカ大陸で誕生し、6万年前くらいにシナイ半島に渡り、5万年前くらいに
タイのあたりに到着し、その後3万年前くらいにはシベリアで生活していたようだ 日本列島には3〜4万年前くらいに到着し、生活を始めたようだ
オーストララリアには4万7000年前くらいに到着している アメリカ大陸には1万5000年前くらいにベーリング海峡を渡って到着し、その後、南下を続けたようだ
アフリカ大陸を出たときは数百人単位での旅立ちだったようだが、その後、旅をしながら増え続けたようだ
日本列島にも千島列島から北海道、本州という北回りルートと台湾、沖縄などを経た南回りルートの2ルートで入ってきたようだ 縄文時代の日本列島の人口は
50万人ほどだから、エサを求めてかなり広範囲に移動したようだ
その後、稲作が始まり、食料の安定供給が出来るようになり、人口が爆発的に増えていった その後、二波、三波、四波、五波と大陸からの集団移住があり混血が進み
人口も増えていったものだろう 縄文時代の生活様式を保っているのは北海道にわずかながらいるアイヌ人だろう 彼らは農耕生活をせず、サケなどをとって生活してきた
日本列島に人間がボウフラのように湧いて出現したようなことをいう人もいるようだが、科学的なDNA解析によると、アフリカ大陸で10万年前くらいに生まれた
現生人類の祖先が流浪を重ね、日本列島にたどりついて定住したということがハッキリとしてきたようだ こうやってみると人間というのは「旅をする猿」ということも
いえるかもしれない 旅をすることによっていろんな経験を積み、知恵が生まれ頭脳も進化していったものだろう 10万年のはるかなる旅というところだろうか?


BC3万5000年前 アフリカ大陸を出発した現生人類の祖先がユーラシア大陸に渡り、シベリア方面や中国・黄河流域から日本列島に来る
BC3万年前 音楽を奏でたり、絵を描くなどの芸術活動もしていた
BC3万年〜1万年(後期旧石器時代) 氷河時代で日本列島と大陸が陸続きになる 大型動物が日本列島に移動する
BC3万年〜1万年(後期旧石器時代) 岩宿遺跡から2万4000年以前の石器が出土
BC3万年〜1万年(後期旧石器時代) 白滝遺跡群で大量の石器が作られる
BC3万年〜1万年(後期旧石器時代) 港川人、浜北人などが出現する
BC3万年〜1万年(後期旧石器時代) 神奈川県の綾瀬、上土棚の墓地跡
紀元前2万9000年前 岡山県鏡野町 恩原遺跡(標高700メートル)のR文化層 ナイフ型石器文化 東北地方の石器と形が似ている
紀元前2万5000年前 O文化層 ナイフ型石器文化
紀元前2万2000年前 S文化層 ナイフ型石器文化
紀元前1万7000年前 M文化層 細石刃文化 シベリアから東北地方を経由して恩原に来た?くさび型細石核という東北地方と同じ作りの石器を使っていた


2008年7月13日岡山県鏡野町の恩原遺跡は大山の噴火の土が降り積もったため、2万9000万年前の石器も見つかるウェブテレビびっくりニュース


アフリカで500万年位前に人類が出現し、250万円前くらいから石器を使うことを覚えた 10万年前くらいに現生人類の直接の祖先の新人が誕生
紀元前8〜5万年前くらいに日本列島にも人類が登場した遺跡が各地で見られる 
岡山県鏡野町の恩原遺跡にも2万9000年前くらいに旧石器人が生活していたようだ 恩原は大山の噴火灰が降り積もった地域なので年代別痕跡がよくわかる
紀元前2万9000年前 R文化層 ナイフ型石器文化 東北地方の石器と形が似ている
紀元前2万5000年前 O文化層 ナイフ型石器文化
紀元前2万2000年前 S文化層 ナイフ型石器文化
紀元前1万7000年前 M文化層 細石刃文化 シベリアから東北地方を経由して恩原に来た?くさび型細石核という東北地方と同じ作りの石器を使っていた
紀元前1万2000年前 縄文海進が始まる
紀元前1万年前 瀬戸内沿岸に貝塚の形成が始まる
紀元前4000年前 総社市南溝手遺跡で、稲作開始(籾殻のついた土器発見)
紀元前800年前 岡山市津島遺跡などで水田耕作が始まる
稲田孝司・岡山大学名誉教授らの調査によると、鏡野町の恩原遺跡の1万7000年前のM文化層から発見された細石刃はシベリアから東北へ渡ってきた
旧石器人が使っていた細石刃と同じ形式で作られていた つまり中国・黄河流域から西日本に渡ってきた旧石器人のナイフではなく、シベリア・東北から渡ってきたようだ
地域的に岡山県鏡野町は西日本地域だが、文化的には東北の影響を受けていた地域ということが明らかになった そのため同教授は中国山地に関東・東北と結ぶ
東西幹線道路があったと推測している いずれにしても大山の火山灰の降り積もったおかげで、恩原遺跡は時代区分がハッキリわかる貴重な遺跡のようだ


BC1万3000年〜(後期旧石器末期) 長野県の野尻湖の南西1キロの上ノ原の石囲い炉 長径1.6メートル、短径0.9メートル、大型動物の狩猟・解体など
紀元前1万2000年前 縄文海進が始まる
BC1万2000年(縄文草創期) 奈良県 山添〜桐山和田 隆線文式土器や狩猟用の石槍、石鍬、骨角器を砥いだ砥石

縄文時代の日本列島の人口は50万人〜60万人前後(松本健一著 泥の文明より)


縄文人の平均身長は男性158センチ、女性148センチ(国立科学博物館の馬場悠男・人類研究部長)


BC1万年ごろ 氷河時代が終わり、日本列島が大陸から切り離される
BC1万年ごろ 針葉樹林から、落葉広葉樹林、照葉樹林に変化
BC1万年ごろ 豆粒文などを持つ丸底深鉢土器が出土する
BC1万年ごろ 大型動物が死滅し、中小動物が繁殖する
BC1万年ごろ 弓矢と石ゾクの使用が始まる
BC1万年ごろ 漁撈が活発になり、貝塚が出現する
紀元前1万年前 瀬戸内沿岸に貝塚の形成が始まる
BC8000年ごろ (縄文早期) 隆線文(尖底)土器が使用される(長崎県福井、愛媛県上黒岩より出土)竪穴住居を営む 貝塚が盛んに造られる
BC7000年ごろ 竪穴住居を広場が囲む集落が形成される
BC7000年ごろ イヌを使う狩猟が始まる

BC5500年 鹿児島湾に面する上野原村に定住集落、集石構造の調理施設、十数軒の竪穴住居、食料貯蔵穴、墓、道路など
BC4500年 (縄文前期)縄文平底土器が多くなる 気候温暖化により海面が上昇する
BC4000年 津軽海峡を見下ろす函館の海岸段丘に20軒程度の住居跡
BC4000年ごろ 気候の温暖化で縄文海進がピークに達する
BC4000年ごろ 関東地方で貝塚集落が増加する
BC4000年ごろ 漆の使用が始まる
紀元前4000年前 岡山県総社市南溝手遺跡で、稲作開始(籾殻のついた土器発見)
BC4000年ごろ 三内丸山に大集落が成立する

BC3000年ごろ 中国の黄河流域に新石器文化、彩陶文化、黒陶文化

BC3100年ごろ (縄文中期) 土偶の制作が盛んになる 諏訪地方を中心に縄文文化が開花する(尖石・井戸尻遺跡など)気候寒冷化、海面が低下する
BC3000年ごろ 中部地方の高地に集落が増加する
BC3000年ごろ 関東地方に大規模環状集落が出現する
BC3000年ごろ 火炎土器など立体文様の大型土器が出現する
BC3000年ごろ 装身具の使用が増加する
BC3000年ごろ 土偶などの呪術的道具が発達する
BC3000年ごろ 抜歯の風習が始まる

BC2500年ごろ(縄文中期後半) 青森県の三内丸山 極太のクリの柱を使った神殿、バヌアツで発見されたと同じ円筒下層式土器
BC2000年ごろ 十和田湖の南12キロのほどの地点の大湯温泉の台地上に環状列石群、階段式ピラミッドのクロマンタ 環状列石の墓地施設が発達する
BC2000年ごろ (縄文後期)関東地方に大規模貝塚が出現(姥山、加曾利など)抜歯、屈葬の風習が盛んに行われる
BC1500年ごろ 滋賀県の琵琶湖南西の正楽寺に祭祀用の環状木列の大型掘っ立て式建物跡

BC1500年ごろ 中国で殷の王朝 興る 青銅器 甲骨文字
BC1100年ごろ 中国で周(西周)が興る

BC1100〜1000年ごろ 東日本に亀ケ岡式土器が出現する
BC1000年ごろ 抜歯が複雑化し、又状研歯が広まる
紀元前800年前 岡山市津島遺跡などで水田耕作が始まる

BC771年ごろ 中国で東周が興る
BC771年〜403年 中国 春秋時代

BC663年ごろ 日本書紀によると、神武天皇が丹生川上に諸神を祀るとする
BC660年ごろ 日本書紀によると、日向族の伊波礼毘古が浪速の地で大和の王の長脛彦と戦い、兄の五瀬命を失うが
熊野を迂回して大和に進出、即位する
BC597年ごろ(神武4年) 日本書紀によると、神武天皇が大和国見山に皇祖大神を祀るとする

BC552年〜479年 中国 孔子(儒教)
BC513年 中国 晋が鉄を鋳造する
BC450年ごろ 中国 鉄器の使用が広まる
BC403年〜221年 中国 戦国時代
BC313年 中国 趙の武霊王が騎馬戦術を採用

BC221年 中国で秦の始皇帝が中国を統一
BC202年〜AD8年 中国で劉邦が前漢を建国
BC195年〜BC108年 朝鮮で衡氏朝鮮
BC176年 中国で月氏が匈奴に追われて西遷
BC108年 中国で漢の武帝が朝鮮に四郡 楽浪(中西)・玄兎(北)・臨屯(中東)・真番(西南)の4郡を置くを置く
BC97年 中国で司馬遷の史記がなる

BC300年ごろ 日本で稲作が始まる 弥生式土器の制作、鉄器の使用、機織りが始まる
BC4世紀〜BC1世紀ごろ 水稲耕作と金属器による弥生文化が九州北部に成立
BC4世紀〜BC1世紀ごろ 吉野ヶ里遺跡など西日本各地に環濠集落が成立
BC4世紀〜BC1世紀ごろ 水田耕作が各地に急速に普及する
BC4世紀〜BC1世紀ごろ 九州に甕棺墓、支石墓、近畿に方形周溝墓が出現する

BC91年11月(崇神6年) 日本書紀によると、崇神天皇が豊鍬入姫に託し、天照大神を大和笠縫邑に
BC91年11月(崇神6年) 日本書紀によると、崇神天皇が淳城入姫姫に託し、倭大国魂神を市磯邑に祀らせた(大和社の起源)に
BC90年11月(崇神7年) 日本書紀によると、崇神天皇が太田田根子に託し、大物主神を祀らせた(大神神社の起源)に
BC90年11月(崇神7年) 日本書紀によると、崇神天皇が淳城入姫姫にかわり太田田根子に託し、<市磯長尾市に倭大国魂神を祀らせた
BC90年11月(崇神7年) 先代旧事本紀によると、石上大神を大和国山辺郡石山邑に鎮座すると伝える
BC88年11月(崇神9年) 豊島神宮伝によると、鹿島大神、常陸大阪山に降るとの伝承
BC60年 中国で前漢が西域都護を置く

BC33年 漢書によると漢の成帝の治世に、倭人の百余国が漢に朝見した
BC3年9月(垂仁26年) 日本書紀によると、垂仁天皇が倭姫命をして天照大神を伊勢国五十鈴川上に祀らせると伝える
BC3年9月(垂仁26年) イエス・キリスト誕生

BC1世紀〜AD1世紀ごろ 九州北部で甕棺墓が増加する
BC1世紀〜AD1世紀ごろ 西日本で武器方青銅器、近畿で銅鐸の製造が始まる
BC1世紀〜AD1世紀ごろ 倭は百余国に分かれ、前漢の楽浪郡と交渉する
BC1世紀〜AD1世紀ごろ 稲作が東北北部まで普及(北海道、沖縄には普及せず)
BC1世紀〜AD1世紀ごろ 瀬戸内海沿岸を中心に高地性集落が出現する
BC0年ごろ 青銅器が移入される


AD紀元後


8年 中国で前漢滅亡 王 新皇帝を称す 〜23年
12年 中国で王奔(おうもう)が高句麗王 スウを殺す
22年 中国で高句麗が、扶余を討って王を殺す
25年 中国で光武帝が王奔(おうもう)を滅ぼし、後漢を建てて即位した
25年〜220年 中国で後漢 (25年〜57年 光武帝)
31年 高句麗が後漢に朝貢
37年 光武帝(劉秀)が天下統一

57年(中国の中元2年)1月 倭の奴国 洛陽に遣使して後漢の光武帝に貢して「漢委奴国王」印を与えられる

57年 中国に後漢の光武帝が死去
67年 中国に仏教伝来
68年 中国で「迦葉原余紀(かようばら)」によると、東扶余が再興
90年 中国が、大月氏を討つ

90年2月 日本書紀によると、景行天皇20年 五百野皇女、伊勢斎宮になるとする

105年 中国で紙が発明される

107年 是年 倭の国王 師升ら、後漢の安帝に生口160人をおくり謁見を求める(後漢書倭伝)

25年〜220年 中国 後漢
82年 中国 朝鮮半島に楽浪郡だけ残る
111年 中国 「後漢書」によると扶余王が楽浪郡(平城)に侵入する
118年 中国 高句麗が、カイハクとともに、漢の玄兎郡を襲う
121年 中国 鮮卑、雲中に入冠し、馬韓を攻撃 高句麗・馬韓・カイハク・玄兎郡を包囲する
121年 中国 東扶余王が子の尉仇台を遣わし、漢とともに高句麗・馬韓・カイ・ユウロウを破る
122年 中国 東扶余が、玄兎郡を救い、高句麗・馬韓・カイハクを討つ
124年 中国 鮮卑が玄兎郡を襲う
132年 朝鮮 高句麗が漢の西安平を討って、帯方令を殺し、楽浪太守を捕らえる
136年 中国 扶余王尉仇台が2万の騎兵を以て漢の玄兎郡を襲う
145年 朝鮮 高句麗 次大王在位

弥生人の平均身長は男性164センチ、女性150センチ(国立科学博物館の馬場悠男・人類研究部長)


147年(中国の建和1年)〜188年(後漢の桓帝・霊帝の時代) 倭国大乱 暦年王なし 女王卑弥呼が共立される(後漢書倭伝、魏志倭人伝)

156年 中国 鮮卑王 檀石塊(だんせっかい)がモンゴールを支配する
166年 中国 ローマ皇帝の使者、中国に至る
167年 中国 扶余王夫台 兵2万を以て玄兎郡を襲い、失敗する
168年 中国 鮮卑とカイハクが、幽洲、併洲に侵入
169年 中国 漢の玄兎太守 臨が高句麗を討ち、高句麗敗れて再び遼東郡(漢)に服属する
178年 中国 後漢書によると、鮮卑王 檀石塊(だんせっかい)が倭人国を襲い、倭人を捕らえる
179年 中国 鮮卑王 檀石塊(だんせっかい)が公孫域に降伏し、のち再び沸流水に帰る
184年 中国 黄巾の乱が起こる 曹操(後 魏王)がこれを破る

184年ごろ倭国大乱 倭国乱れ互いに攻征伐しあう



2008.06.01日本列島の人口推移から推測する邪馬台国の所在地は?山陽地方+四国地方=吉備王国=邪馬台国だろうか?


邪馬台国の所在地論争で九州だ、畿内だ、あるいは四国だなどと論争が盛んだが、いわゆる卑弥呼が生きていた2世紀、3世紀の邪馬台国の時代のころに日本列島の
人口分布はどうだったのだろうか?鬼頭宏・上智大学教授著「人口で見る日本史」によると、弥生時代の日本列島の人口はわずかに59万4900人、
この人口は弥生時代の住居遺構の数などから推計したものだが、従来思われていた人口よりかなり少ない 
 邪馬台国の候補地の北九州が4万0500人、近畿地方が10万0500人に過ぎない

吉備王国は山陽地方4万8900人+四国地方3万0100人で合計は7万9000人
陳寿が書いた魏志倭人伝によると、邪馬台国の人口は7万戸、投馬国は5万戸、奴国は2万戸と書かれている こうやってみると戸を人と考えたほうがいいのかもしれない

邪馬台国7万戸=吉備王国の山陽地方4万8900人+四国地方3万0100人で合計は7万9000人
投馬国5万戸=近畿地方10万500人
奴国=北九州地方4万500人

とすると、まずまず、話が合ってくる
また麗澤大学教授の松本健一氏は著書の「泥の文明」の中で下記のように日本列島の人口を推計している

縄文時代の日本列島の人口は50万人〜60万人前後(松本健一著 泥の文明より)


奈良・平安時代の日本列島の人口は500万人〜600万人前後(松本健一著 泥の文明より)


邪馬台国の時代の2世紀、3世紀が弥生時代後期から晩期ということを考えると、「人口で見る日本史」の推計よりは人口が多いかもしれない
ただ、人口比は北九州地方、山陽地方、四国地方、近畿地方で時代が変わってもさほど変わらないのではないか?と思える

邪馬台国の所在地論争で人口を加味して論じた学者はいないようで、魏志倭人伝の解釈や書かれている民俗や風俗などから類推していることが多いようだ
邪馬台国が四国の山上にあったというような論もあるようだが、当時の2世紀、3世紀くらいは四国の山上には猿かイノシシくらいしか住んでないわけで
荒唐無稽な論であることは人口推計の上からも明らかだろう 人間の住んでいたのは食料資源の豊富な海岸沿いにしか住んでいない しかもパラパラにしか住んでいない
恐らく、河川と海が交わる地点あたりに集落を作って、パラパラと散在しているといったこところだろう

縄文時代には関東地方や奥羽地方に意外に人口が多いことに驚かされるが、関東地方や奥羽地方は邪馬台国とは関係ない別の国だろう
いずれにしても、人口推計と整合性のある邪馬台国論争をやってもらいたいものだ 人口推計との整合性からいけば邪馬台国=吉備王国だろう
妄想的な邪馬台国論争が続いている現状はまことに嘆かわしい限りだ 科学的、合理的に邪馬台国論争をやってもらいたいものだ 論者の知的レベルが低いのだろうか?

●「人口で見る日本史」(鬼頭宏・上智大学教授著)より、縄文〜弥生は小山修三・国立民族学博物館教授の住居遺構などからの推計、奈良時代は戸籍残簡から推計) 

縄文早期(合計2万100人) 北九州800人 四国200人 山陽300人 近畿300人 東海2100人 関東9700人 奥羽2000人
縄文前期(合計10万5500人) 北九州1400人 四国400人 山陽900人 近畿1700人 東海4800人 関東4万2800人 奥羽1万9200人
縄文中期(合計26万1300人) 北九州1400人 四国200人 山陽700人 近畿2700人 東海1万2800人 関東9万5400人 奥羽4万6700人
縄文後期(合計16万0300人) 北九州2400人 四国2700人 山陽1700人 近畿4200人 東海7400人 関東5万1600人 奥羽4万3800人
縄文晩期(合計7万5800人) 北九州3000人 四国500人 山陽1000人 近畿2000人 東海6400人 関東7700人 奥羽3万9500人

弥生時代(合計59万4900人) 北九州4万0500人 四国3万0100人 山陽4万8900人 近畿10万0500人 東海5万4400人 関東9万9000人 奥羽3万3400人

奈良時代(合計451万2200人) 北九州34万0500人 四国27万5700人 山陽43万9300人 近畿96万0300人 東海48万8600人 関東77万9700人 奥羽28万4500人

上記の人口推計の上から、弥生時代の北九州の人口が4万0500人であることからして、邪馬台国の人口7万戸よりかなり少ないだから外れる おそらく奴国だろう
残りは山陽4万8900人+四国3万0100の吉備王国だが、人口が合計7万9000人で魏志倭人伝の7万戸を7万人と解釈すればピッタリ合ってくる
投馬国5万戸を但馬国と解釈すれば、近畿の10万500人のうち5万人くらいが投馬国の住民、現在の兵庫県の但馬、丹波、京都の丹後あたりに住んでいたのだろう
近畿地方の残りの5万人が現在の大阪府や奈良県や和歌山県や三重県などに住んでいたのだろう
また、大宝律令が制定された文武4年(700年)までは吉備太宰が置かれ、兵庫県の西部の播磨地方は吉備太宰の統治していたようだ(沖浦和光・川上隆志著「渡来の民と日本文化」)
ということで近畿の10万500人のうち2万人くらいは山陽地方の人口に加えるべきかもしれない

ということで、人口推計の上からも、邪馬台国は山陽+四国の吉備王国というのが正解ということになる
常識的に考えて、米、魚、鉄、塩が豊富で瀬戸内海の制海権を持っていた吉備王国が盟主(邪馬台国の卑弥呼の地位)に推されるのは当然のことだろう


188年 是年後漢の桓帝・霊帝の間(147〜188)光和年中(178〜183)倭国乱れて攻伐続き、ついに卑弥呼を擁立して女王とする

189年〜204年 中国 遼東侯 公孫度在位
191年 中国で孫堅が洛陽に入る
192年 中国で曹操(155〜220、後 魏王)が挙兵
197年〜229年 朝鮮 高句麗新大王の3子の山上王が在位

3世紀のアジア 中国(魏・呉・蜀・匈奴・鳥桓・扶余・遼東)朝鮮(高句麗・楽浪郡・帯方郡・わい・馬韓・辰韓・弁韓)日本(倭)

204年 中国で遼東の公孫氏が自立(228〜238)楽浪郡の南に帯方郡を置く
204年 中国で遼東の公孫氏が帯方郡を置く
205年 中国で後漢が朝鮮に帯方郡を置く
208年 中国で赤壁の戦い
215年 中国で道教(鬼道教団)の総帥の帳魯が、後漢王朝に降伏する
220年 中国で後漢が滅亡、魏が中国北部を統一する
220年〜280年 中国で三国時代(魏220〜265・呉221〜263・蜀220〜280)

220年 魏王の曹操が死去、子の曹ヒが即位、後漢王朝の文帝になる 劉備が蜀の首都を成都に、呉の孫権は建業を首都にする
221年〜228年 中国で遼東侯の公孫恭 在位
228年〜238年 中国で遼東侯の公孫淵(こうそんえん)が在位く

233年 中国で魏志倭人伝の著者の陳寿が生まれる(233〜297)
234年 中国で諸葛孔明(諸葛亮)死去(181〜234)
236年 朝鮮で高句麗が呉王孫権の使者を殺し魏に送る
238年 中国で魏の司馬イが公孫淵(こうそんえん)を滅ぼす

238年 是年(呉の赤鳥元年)の銘のある鏡 甲斐国西八代郡の古墳から出土する
238年(中国の景初3年)6月 卑弥呼、使人難升米らを魏に派遣し男生口4人 女生口6人 斑布2匹2丈を献じる(魏志倭人伝による、梁書では239年)
239年(中国の景初3年)6月 卑弥呼、使人難升米らを魏に派遣し男生口4人 女生口6人 斑布2匹2丈を献じる
239年(中国の景初3年)12月 魏王、卑弥呼を親魏倭王となし、金印紫授を与えられ銅鏡100枚などの好物を下賜される
239年(中国の景初3年) 魏王、使者の難升米に銀印青授を授け率善中郎将に、都市牛梨にも銀印青授を授け率善校尉官に
239年(中国の景初3年) 魏王の土産 交龍の模様を織り込んでいる錦を5匹、毛織物10張、100匹の織物
239年 魏王の卑弥呼への贈り物、錦三匹、毛織物5張、白絹50匹、金8両、5尺の刀2口、銅鏡100枚、真珠50斤、鉛丹50斤

240年 是年(魏の景初3年)の銘のある鏡 和泉国泉北郡黄金塚から出土する
240年 是年 帯方太守弓避、魏の詔書印綬賜物をを倭国に送付する
240年 是年(魏の正始元年)の銘のある鏡 但馬国出石郡・上野国群馬郡の古墳から発掘される
243年 是年 卑弥呼、魏王に使者を派遣し生口その他を贈り使者の伊声キ(いせいき)液邪狗(いきこ)ら8人は率善中朗将の印綬をもらう
244年 是年 (呉の赤鳥7年)の銘のある鏡 摂津国川辺郡の古墳で発掘される

244年 中国で魏の母丘倹(かんきゅうけん)が高句麗を侵し、丸都城を攻略する
245年 中国で魏の母丘倹(かんきゅうけん)が高句麗を侵し、楽浪・帯方両郡がワイを侵す

245年 是年 魏の斎王、邪馬台国の使者難升米に黄ばく(黄色の釣鐘状の旗・軍の最高指揮官の証)を与える

246年 中国で魏がカイハクを侵略す、韓のナケイら数十国が魏へ朝貢する

247年 (中国暦の正始8年)邪馬台国女王と狗奴国の男王の卑弥呼素(ひみここ)の戦争が始まる
248年(中国の正始8年) 是年 卑弥呼 没  魏の正始年中(240〜248)卑弥呼の死後男王が立ったが国中治まらず 壱与立って治まる
248年 是年 邪馬台国の女王の壱与が帯方郡の使者の張政をイ邪狗(いきこ)ら20人に護送させ帯方郡の役所に送らせる
248年 是年 壱与の貢物は、男女生口30人、白珠5000孔、青大勾玉2枚、錦20匹

249年 司馬イ仲達が魏の実権を握る
261年 朝鮮の韓が魏に朝貢する
263年 中国で魏が蜀を滅ぼす
265年 中国で晋王 司馬炎、皇帝を称す(西晋〜316年)
265年 是年 西晋の泰始初年(元年=265)邪馬台国の女王壱与 使者を西晋に派遣して入貢する
?266年(中国の泰始2年)  女王壱与 使者を西晋に派遣して入貢する(晋書)

277年 (中国暦 感寧3年)「晋書」四夷伝によると、馬韓(50余国)が晋に朝貢する
280年 (中国暦 太康1年)「晋書」四夷伝によると、辰韓(12国)が晋に朝貢する
280年 (中国暦 太康1年)中国で晋の武帝が呉を滅ぼして中国で統一
280年 (中国暦 太康1年)〜297年 魏の著作郎の陳寿が魏志倭人伝を著作
286年 朝鮮の高句麗が帯方郡を攻める
300年〜306年 中国で八王族の乱
313年 朝鮮で高句麗が楽浪郡、帯方郡が滅亡

313年 高句麗が漢代以来の楽浪郡、帯方郡を制圧、朝鮮半島南部で百済(馬韓)、新羅(辰韓)が勃興

316年 中国で西晋が滅亡 五胡16国時代(316〜439)
317年〜420年 中国で東晋(江南)

319年 中国で晋(西晋)が滅亡、非漢民族の匈奴、鮮卑、けつ、きょう、てい の5族がそれぞれの国づくりを開始

300年 (古墳時代)このころから前方後円墳が築かれ始める 崇神天皇陵、桜井茶臼山陵、箸墓など

313年 楽浪郡、帯方郡滅ぶ 百済、新羅が成立する

340年 是年 百済王、太子を送って人質とする

343年 朝鮮で高句麗が国内城に遷都
346年 朝鮮で百済興る(近尚古王)
356年 朝鮮で新羅興る(奈勿王)

366年 是年 百済との通交を約束する

369年 朝鮮で日本軍出兵、百済と通交、任那を領有(日本府の成立?)

4世紀後半ごろ 大和 マキムキ遺跡で水洗便所など
367年 是年 百済から初めて使来る
372年(中国の太和4年)  百済王、倭王に七支刀(奈良県天理市の石上神宮の七枝刀)、七子鏡を献上する
372年(中国の太和4年)このころから阿直岐史の祖、阿直岐 、西書首の祖、王仁、東漢直の祖、阿知使主らが渡来する

372年 朝鮮で高句麗に仏教が伝わる
377年 インドで紀元前から吟遊詩人によって歌われていた二大叙事詩の「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」がサンスクリット語になる
386年 中国の華北で鮮卑人の拓抜桂が自立して北魏を興す
391年〜412年 高句麗好太王

391年(中国の太元16年) 是年 倭国 朝鮮に出兵し百済・新羅を攻め臣にする(好太王碑)



392年 このころから応神天皇
393年 是年 倭軍、新羅の玉城を攻める

400年 新羅に侵入した倭軍、高句麗の援軍に破れる


400年 朝鮮で高句麗軍が南下、任那、加羅を攻撃

404年(中国の元興3年) 是年 倭軍 帯方の地に侵入し高句麗軍と戦って敗退する


413年(中国の義キ3年) 倭国 倭王 讃 が晋に朝貢(晋書)

413年 晋書の安帝記の義キ9年、高句麗についで倭国が方物を献じた
413年 義キ起居注に「倭国、豹皮(朝鮮虎の皮)、人参(朝鮮人参)などを献ず、詔して細笙・麝香を賜ふ」太平御覧の巻981
413年 南史倭国伝に「晋の安帝のとき、倭王讃有り」
413年 梁書倭伝に「晋の安帝のとき、倭王賛有り」
414年 好太王碑 中国吉林省集安県 大王郷に築造(広開土王碑 永楽大王)
414年 好太王碑 辛卯年 391年 永楽9年399年 永楽10年400年 永楽14年404年

418年 是年 東晋の安帝の時(357〜418)倭国 東晋に使をやって方物をすすめる

421年(中国の永初2年) 是年 倭王讃(履中?421〜426、仁徳?)司馬曹達を宋に遣わし武帝に安東将軍倭国王の称号を受ける

430年 倭国が宋に朝貢

438年(中国の元嘉15年) 是年 倭王弥(珍、反正?427〜438) 宋に物を贈り安東将軍の称号を与えられる

439年 中国で北魏(423〜452)が江北を統一、天下二分して南北朝になる

443年 是年 倭王済 (尤恭?439〜459)宋に物を贈り安東将軍の称号を与えられる

450年 朝鮮で高句麗が新羅を攻撃

451年 是年 倭王済 宋から使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の称号を与えられる
462年 是年 倭国王興(安康?460〜462) 宋より安東将軍倭国王の称号を授けられる

473年 北魏、洛陽に遷都する
475年 朝鮮で高句麗軍が百済の都の漢城を陥落させる、百済が熊津に遷都

478年 是年 倭王武 (雄略?463〜479)宋に上奏文を送り高句麗を討つための援助を求める 武 六国諸軍事安東大将軍に任じられる(宋書)

478年 このころから九州に装飾古墳が作られ始める 石人山古墳(八女市)、千金甲古墳(熊本市)、チブサン古墳(山鹿市)など
478年 9月 日本書紀によると雄略天皇22年 伊勢外宮 豊受宮 このとき、伊勢に鎮座するとの伝えあり

479年 是年 倭王武 斉の高帝より使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の号を授けられる

479年 中国で宋が倒れ、斎が興る
489年 朝鮮で高句麗が新羅の孤山城を陥落させる
493年 華北の北魏が洛陽に遷都
494年 朝鮮で扶余人が高句麗に降参する

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