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「吉備に高天原とヤマタノオロチ神話の根源地を探して」


             

 2006年12月    広畠 輝治


邪馬台国・吉備説は大和説、九州説に較べると、まだ支持率が推定1%前後とマイナーな意見ですが、


九州説は弥生中期から終末期までの西日本各地の歴史的な事象を3世紀前半の卑弥呼や


4世紀後半の神功皇后に強引に集約してしまっている誤りに固執ないしは自己陶酔されている印象を持ちます。


大和説は土着の王国が発展したとする説にせよ、吉備讃岐と九州勢力が2世紀末の倭国大乱の前後に


大和に進出して邪馬台国を打ち立てたとする説にせよ、3世紀末の崇神天皇からが実在の天皇と考えた場合、

わずか数10年前にすぎない出来事である狗奴国との戦争や中国の魏や朝鮮半島の帯方郡との交流の伝説が


古事記や日本書紀に紹介か反映されていないことが不思議です。


狗奴国の大和が3世紀後半に吉備讃岐・邪馬台国連邦を倒した後、東国地方も含めた東西日本の統一王国を成し遂げた、


とする論理で進めていくと、謎の3世紀も比較的すんなりと解読できていくのですが、


日本という国は固定観念が染み付くとそれが誤りであっても打ち消していくのに大変な時間と忍耐がかかる伝統社会、


しかし権威ある外人や外国の声には手のひらを返して追従する社会でもありますので、時が熟していくまで辛抱しながら、


吉備説をさらに煮詰めていく作業を進めています。


現在取り組んでいる作業の1つは、吉備の津山盆地から三次盆地の間の中国山地のどこかに存在するであろう高天原と


ヤマタノオロチ神話の根源地探しですが、候補地として以下に紹介する3地区に絞っています。


いずれ、候補の3地域をじっくりと検証する旅を行なう必要がありますが、その間、吉備の地元の方々も含めて、


吉備高天原説にご興味をお持ちの方々との「討論会」や「吉備・高天原探求会」の形に発展できれば願ったり適ったりです。


第1章 高天原神話の根源地の3候補地


高天原は複数箇所に存在するということも考えられますが、私が絞り込んだ3地区を挙げます。
それぞれ岡山県の3大河川である吉井川、旭川、高梁川の流域に当たります。

1.津山盆地周辺(美作・備前)

:那岐山、泉山、神(高)ノ峰を結ぶ三角線と周辺(備前と美作の国境)

2.蒜山高原と出雲街道(美作)

3.帝釈川と成羽川周辺(備中・備後)

:御神山を中心点とした庄原・三次盆地側と高梁市に至る帝釈川・成羽川周辺。

高天原と認知できる最低条件として

1.太陽信仰の遺跡:ストーンサークル(環状列石)など、冬至に関連する磐座がある

2.祭祀遺跡:卜骨(鹿や猪の骨など)と分銅形土製品が大量に出土する。
卜骨が95点、分銅形土製品が56点出土している鳥取県鳥取市の青谷上寺地遺跡の規模が必要

の2点が最低条件と考えています。
残念ながら、この2つの条件を充たす大規模遺跡は、3地区ともまだ発見されていませんが、
弥生時代の宗教や祭祀はこれまでは道教や中国の民間信仰など、揚子江河口の江南地方や
朝鮮半島南部との関連性に力点が置かれてきましたが、私はむしろ磐座(いわくら)や環状列石の太陽信仰、
冬至祭祀などの縄文文化と水稲と交易発展の弥生文化が融合したのが今日に伝わる神道の源流ではないか、
その場所は中国山地なのではないか、弥生中期に吉備地方で発生した分銅形土製品も縄文時代の平板土偶から変化したものではないか、と
推察しています。

岡山県古代吉備文化財センターのサイトで「北の土器、北の人々」(石田為成氏筆)を読みますと、
弥生中期後葉頃、三次・庄原盆地を中心として塩町式土器と呼ばれる装飾性が高い特徴的な土器が分布しています。
津山盆地周辺でも土器の形や紋様に装飾性の個性が強い土器が出土しています。

津山盆地と三次盆地を結ぶ中国山地は南の瀬戸内海、北の日本海の南北から影響を受けながら、
独自の文化を形成していたことが想像できます。

1.津山盆地周辺


焦点は那岐山(標高1240m)、泉山(同1209メートル)、神(高)ノ峰(標高517m)を結ぶ三角線で、
高天原は泉山の奥津側にある大神宮原ではないか、とする説です。
邪馬台国・吉備説神話篇第3弾で紹介しましたように、岡山県の古そうな神社の祭神を追っていくと、
高天原神話に登場する神々を祀る神社が日本国内で恐らくこの地域のみと言えるほど、津山盆地に集積しています。
(吉備説第3弾 参照)

津山盆地の北側を見ますと、東の那岐山の山麓の

諾神社(イザナギ)、 綾部神社(オオミヤヒメ、ワカヒルメ、スサノオ、オオナムチ、オオクニヌシ、ウカノミタマ、応神天皇―八幡神)、
高倉神社(イザナギ、ツキヨミ、スサオオ、イナダヒメ、オオナムチ)、
大佐々神社(イザナギ、ツキヨミ、スサノオ、タカオカミ)、
高田神社(アメノコヤネ、アマテラス、ウカノミタマ、ヒコホホデミ)、中山神社(イシコリドメ)、
大美弥神社(オオミヤヒメまたはアメノウズメ)、
久田神社(現在はダム設置により、移転している。幾つかの神社が合祀されているため、祀られている神々が多い。
オオヒメル系、スサノオ、オオヤマツミ、タカオカミ、ハニヤマヒメ、カナヤマヒコ、オオモノヌシ、オオクニヌシ、スセリヒメ)と
一連の流れがあり、奥津の大神宮原に至ります。

津山盆地の南側を見ますと、

錦織神社(スサノオ。秦氏の祖霊社)、
榊葉神社(スサノオ、アメノコヤネ、大地神、菅原神)、
貴布禰神社(タカオカミ)、刀八神社(タケミカヅチ、フツヌシ、応神天皇―八幡神)、
上山宮(スサノオ)、八神(ねりがみ)、
大宮神社(サルタヒコ)、天石門別神社があり、

神(高)ノ峰を越えた備前側には

血洗いの滝(スサノオ)、 宗形神社、金毘羅山(標高480m)があります。和気町(旧佐伯町)に降りると、北山方にスサノオの幽閉の地とも考えられる素盞鳴神社、
太陽信仰・冬至信仰の遺跡とも考えられる加三方磐座遺跡、赤磐市の石上布都魂神社(スサノオの剣、フツタマ)と続きます。
高天原である大神宮原を追われたスサノオは津山盆地を漂泊しながら神ノ峰に降り立った、という構図になります。

2.蒜山高原(美作)と出雲街道


この説は勝山町―美甘村(みかもそん)―新庄村(しんじょうそん)
―鳥取県日野町(日野川の源流はスサノオが下り立った伝説がある出雲の鳥髪山)を結ぶ出雲街道が根源地とする考え方です。
美甘村から447号線で蒜山高原に向かいますと、高原の入り口に祝詞があります。

日の出の後、「祝詞」の地から蒜山盆地を見下ろすと雲海がたなびくブナ林が一面に拡がり、
その上に太陽に照らされる蒜山三山(標高1200m)が浮かび上がる、という神々しい風景となります。
古代の人々が神々が棲む高天原と想像しても不思議はありません。

出雲街道を往来する瀬戸内海側と日本海側の人たちが「祝詞」の地で祭りごとを行なったのではないか、
祝詞周辺から古代の祭祀跡や分銅形土製品が出土しないだろうか、と期待しています。

3.帝釈峡周辺・三次盆地(備後)と川上町の穴門山神社と弥高山周辺(備中)


中心点は御神山(標高888m)です。 岡山県側に下っていくと、神殿原、神龍、神石など「神」がつく地名が多く、帝釈川が注ぐ成羽川(高梁川の支流)に入ると、
北側に銅山やベンガラ(赤酸化鉄)の産地で有名な吹屋と坂本があり、南側に本宮、
天王に続いて弥高山(標高654m)の中腹に穴門山神社があります。
穴門山神社の祭神はアマテラス(太陽神オオヒルメ)で

崇神天皇の皇女トヨスキイリビメがアマテラスの御神体である鏡を祀る候補地として訪れた名方浜宮であるとする伝承があり、
天の岩戸を連想する洞窟もあります。太陽神が棲む高天原にふさわしい環境です。

御神山を広島県側に下っていくと、 日本ピラミッドと呼ばれ、磐座が多く存在する葦嶽山があり、庄原・三次盆地に入ります。
三次盆地は弥生中期後葉に四隅突出型墳丘墓の発祥地と推定され、島根大学考古学研究室作成の「四隅突出型墳丘墓」でも
三次市の宗祐池西1号と2号、陣山1号から5号が発生期の墳墓とされています。

四隅突出型墳丘墓文化は弥生後期初め頃に西出雲や日本海側に降りていきます。
私の推定では、この流れはスサノオ、オオナムチが斐伊川沿いに西出雲(神門水門周辺)に下っていく流れと一致します。
御神山周辺は旧石器時代や縄文時代の遺跡が数多く点在しており、縄文時代から太陽信仰の中心地の1つであったように感じます。

第2章 ヤマタノオロチ神話の原郷地


1.ヤマタノオロチ神話の原風景


古事記では、スサノオが鳥髪山に降り下ると上流から箸が流れてきました。
上流に上がっていくとアシナヅチとテナヅチの老夫婦が一人の乙女を囲んでさめざめと泣いています。
理由を問うと、元は8人の娘がいたが、毎年、ヤマタノオロチがやってきて一人づつ食べていき、最後の残ったのがこの乙女という話です。
ヤマタノオロチは目が赤いほうずきのようで、身は1つだが頭は8つあり、
その身は苔や檜・杉のような鱗を持ち、腹の部分は真っ赤に血だれています。

スサノオは老夫婦に酒を準備するように指示した後、8つの門がある垣を築き上げ、門ごとに酒壷を置き、酒を充たします。
しばらくするとヤマタノオロチが現れて8つの頭で酒を飲み干し、その場で寝込んでしまいます。
すばやくスサノオがオロチを斬ると尾から太刀(尾張の熱田神宮に祀られている草薙の剣との伝承がある)が出現します。
スサノオが携えていた剣はかっては赤磐市の石上布都魂神社に祀られていましたが、
いつの頃か大和の石上神社に奉納された、という伝承があります。

このヤマタノオロチ神話は、山上に棲み砂鉄から鉄を製造するタタラ族とスサノオ族の争いと解釈する説があります。
しかし中国山地で砂鉄製法が実用化されたのは応神朝の5世紀のことで、
私はヤマタノオロチ神話の起源は弥生時代中期中葉頃と考えていますので、この説は対象外となります。

毎年、台風の季節になると河川はベンガラを含んだ赤い濁流となって氾濫し、農民達は洪水の被害に悩んでいました。
スサノオは川に堰や堤防を築くことにより、水の氾濫を防御した国土開発のヒーローという解釈をとります。

中国山地の砂鉄は、岡山県側と島根県・鳥取県側の両サイドで採取できますが、鉄鉱石の原石の産地は岡山県側にあったようです。
このため岡山県側の砂鉄はベンガラ分が多くて川は赤く濁りやすい。

これに対し、山陰側の砂鉄は海中に漂っていた時間が長かったこともあり、
硫化成分が浄化され山陽側に較べて品質が高い黒色になっている、このため赤く濁らないと言われます。
ですからヤマタノオロチ神話の舞台が吉備であってもおかしくはありません。
弥生中期中葉に吉備で鉄鉱石を使った鉄器の製造が始まっていたとしたなら、俄然面白くなるのですが、現時点ではありえない話です。

2.スサノオ神話は出雲ではなく吉備が発祥地ではないか


既成概念では日本神話は大和の天つ神と出雲の国つ神の対立の構図で理解され、
スサノオは出雲地方の祖神として信仰されていたと解釈されてきましたが、
吉備説神話篇第2弾で紹介しましたように、私は弥生後期に吉備で成立した神話を核に垂仁天皇時代の頃に
大和建国神話と出雲神話が融合されて、日本神話の原形が成立したと考えています。

自説ではスサノオとヤマタノオロチ神話の根源地は吉備地方で、出雲地方のスサノオ神話は西出雲へは三次盆地から、
東出雲へは出雲街道を通じて美作、伯耆から入っていった、斐伊川河口地域の出雲郡と神門郡を主体とする西出雲と、
意宇郡を主体とする東出雲は別個に考えるべきではないかと考えています。
その理由として以下の点を挙げます。

―出雲地方に高天原伝承の地が存在しないのは、高天原は吉備側の中国山地という認識が前提となっているからではないか。

―出雲国風土記を読むと、 出雲の国の創始神はカミムスビ、ヤツカミズオミズヌ、イザナギ・イザナミ―スサノオ―オオナムチの3系統に分類できる。
他国から土地を引っ張ってきて島根半島を造ったヤツカミズオミズヌは土着の神だが、
イザナギ・イザナミ―スサノオ―オオナムチは他所から、即ち吉備から降りてきた可能性が高い。

―スサノオが降り立った鳥髪山がある仁多郡の横田町と斐伊川がヤマタノオロチ神話の根源地とするのが通説であるが、
不思議なことに出雲国風土記の仁多郡の記述にヤマタノオロチ伝承は登場せず、
横田町のイナダヒメを祀る稲田神社もぽつんと存在するような印象を与える。

―スサノオを「須佐の男(お)」と解釈して、根源地は出雲市佐田町須佐の須佐神社とする説も根強いが、
須佐は誕生の地ではなく、幽閉の地である。 しかしスサノオが棲む海底の根国は紀伊の熊野川の沖合い、黒潮の彼方とするのが一般的で日本海ではない。

3.ヤマタノオロチ神話の原郷地は赤磐市周匝(すさい)周辺とすると


ヤマタノオロチ神話の候補地を吉備で探していくと、高天原と同様に旭川上流、吉井川中流域、高梁川流域の3地域が考えられます。
この中で私が第1候補と考えているのが、神ノ峰の山麓、吉井川と吉野川が合流する地点にある周匝平野です。

「周匝」の読み方が分からず「しゅうそう」、「しゅうさい」と読むのだろうとあまり注意をしてこなかったのですが、
改めて調べてみると「すさい」で驚きました。「すさ」はスサノオの「すさ」と同義語だったら嬉しいのですが、
これは専門家に聞かないと確認できません。「す・さい」と読んだ方が妥当なようです。

しかし吉井川を津山市側に上るとスサノオを祀る上山宮(じょうざんぐう)の入り口付近に周佐(美咲町。旧柵原町)の地名があります。
「しゅうさ」と読むのだろうと推察していたのですが、「すさ」と読む可能性も出てきました。
周佐の読み方をあれこれ調べていっても確証ができません。そこでパリから「周佐」を管轄する美咲警察署に電話で問い合わせました。
すると期待通り「すさ」と読むということです。

上山宮の奥にある「八神」は「ねりがみ」と読むが、なぜ「八」を「ねり」と読むのかは分からないということです。
スサの地名は出雲の須佐だけでなく吉備にもあり、「すさの男(お)」は吉井川中流にも存在していた可能性が出てきました。
周匝は旧吉井町の中心部で、陸送が主体となった現在はさびれた印象を与えますが、
水運が盛んだった古代から近世まで吉井川の水運の宿場町として栄え、軍事的にも重要な場所でした。

徳川時代でも池田藩の陣屋が置かれ、周匝茶臼城や周匝池田家の歴代当主の墓地「空の塚」があります。
対岸には月の輪古墳やつい最近まで現役だった硫化鉄を産出する柵原鉄鉱山跡があります。

周匝の中心部から神ノ峰の方向に進むと宗形神社、血洗いの滝がある是里に入ります。
古事記では正后のイワノヒメ(石之日売)の嫉妬を恐れて吉備に戻った黒姫を追って仁徳天皇が黒姫の元を訪れます。
黒姫は吉備の山方に仁徳天皇を招待し「山縣に 蒔いた青菜も 吉備の女性と 一緒に摘むと 楽しいものだ」と
仁徳天皇が歌った場所が是里、とする伝承があります。弥生中期中葉と仁徳天皇とは約五百年の開きがありますが、
周匝平野は弥生中期からかなり繁栄していた地域と推察できます。

神ノ峰の美作側に周佐(すさ)、スサノオを祀る上山宮(アシナヅチとテナヅチも祀っています)、
アマテラスとスサノオのウケイで誕生した八神の地名があり、備前側にスサノオがヤマタノオロチの剣を洗った血洗いの滝、
八神のうち三女神を祀る宗形神社、吉井川と吉野川の合流点に周匝(すさい)、北山方に素盞鳴神社、
石上に石上布都魂神社と少なくとも8つの点が存在するのは単なる偶然でしょうか?
  あるいは後代に古事記や日本書紀の描写に沿って人為的に名付けられたものでしょうか? 

4.蒜山高原周辺とすると


蒜山高原内に大蛇(オロチ)など関連の地名や伝承がありますが、茅部神社周辺の高天原伝承地も含めて、
吉井川、高梁川の両流域に較べるとスケールが小さい印象を持ちます。

津山盆地の泉山の高天原伝承が蒜山高原に移植されたと考えた方が妥当かも知れません。
もう少し視野を広げると、旭川本流に月田川、新庄川、神庭川などの支流がぶつかり、
少し上流には鉄山川もある勝山町周辺がヤマタノオロチ神話の原郷と推測できます。

5.成羽川周辺とすると


弥高山(標高654メートル)、穴門山神社周辺が高天原とすると、天王、本宮に下ると成羽川に出会い、
北側にベンガラで有名な吹屋があります。ヤマタノオロチの舞台は成羽川流域と高梁川の本流が合流する高梁市周辺ではないか、
と推察できます。高梁川の本流を上がっていきますと、神原の地名があり、さらに上流には神郷、神代があり、
地勢的な条件では、吉井川中流域とほぼ同じで、有力な候補地となります。

高梁市、弥高山を下っていくと備中の井原市に至り、山陽道を経て備後の下市(福山市)に至ります。
下市には備後一ノ宮の素盞鳴神社があり、蘇民将来伝説発祥の地と言われています。

スサノオが諸国をめぐって日暮れに宿を請うたところ、兄の巨旦将来は富み栄えていたのに宿を貸さず、
弟の蘇民将来は貧しかったが手厚くもてなした。そこでスサノオは疫病が流行しても茅の輪をつけて
「蘇民将来の子孫である」と言えば災厄を免れると約束した、夏季の厄除け祭り(祇園神社や氷川神社などスサノオ系神社が主体)に
欠かせない茅の輪の発祥地と言われます。

ただ弥高山から下市に至る間にはスサノオに関連する古社や伝承が少なく、福山市の新市と鞆でスサノオがふいに登場します。
この地域は逆にキビツヒコ2皇子関連の神社が多く、大和勢力に征服された後、高天原・スサノオ信仰が薄められたのかも知れません。

(3地区の長所と短所)


@津山盆地周辺

利点:関連する神々を祭神とする神社が集中しているのは、全国でこの地域のみ。
短所:弥生中期の大規模遺跡が発見されていない。

A蒜山高原周辺

利点:風景、地勢的に「日本のオリンポス」にふさわしい。
短所:弥生中期、後期に開墾され、大規模な集落が存在した可能性は薄い。

B成羽川周辺

利点:関連する神社や伝承は少ないが、それ以外は津山盆地周辺と同じ条件を充たしている。
短所:三次盆地以外では、弥生中期の大規模遺跡が発見されていない。

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