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広畠輝治の邪馬台国・吉備説 


第4弾  総括


その1 取材旅行を終えて


2002年4月に「邪馬台国 岡山・吉備説から見る古代日本の成立」をコエランス社のプロデュースで神無書房から出版した後、
神話と神社史も加えて、吉備説を掘り下げていきました。調べていくとどんどん深みに入ってしまい、
西日本を主体に訪問しなければならない場所が次々と増えてしまいました。
吉備説がガセネタであるなら、ここまで深まることはなかったと思います。
3年前から大和、鈴鹿・尾張地方、関東地方と少しづつ取材旅行を重ねながら、昨年4月に岡山・讃岐・伯耆・因幡・近畿地方、
11月に九州・出雲・周防・備後・丹後と2回に分けて長期取材を行い
弥生中期が北九州、弥生後期が吉備・讃岐、古墳時代が大和とする自説の3段階説を確認しました。
但し、吉備・邪馬台国の始まりは備前・美作勢力と讃岐勢力の連携にあるようですので、「邪馬台国・吉備説」ではなく、
「吉備讃岐説」に変えた方が適切かな、と迷っているところですが、現時点では邪馬台国・吉備説で統一します。
四国、北陸、信州、東海地方等もさらに訪問すべきなのですが、キリがないので、ここいらで取材旅行は打ち切り、
年内の出版を目指して第2部「神話篇」の最終作業を始めました。出版元はまだ確定していませんが、
1年前に掲載を始めた予告編の最終章として、第2部の要旨をご紹介させていただきます。

(日本列島の縦軸と横軸)


4月の取材旅行の結論は「弥生後期の吉備・邪馬台国圏は弥生中期と後期前葉の瀬戸内海を中心とした高地性集落と
分銅形土器の分布と一致している」ことでした(第3弾参照)。
11月の旅行の結論は「日本列島の縦軸は縄文文化、横軸は弥生文化・外来文化」でした。
少し抽象的な結論ですが、1万2000年前に始まった縄文文化が沖縄から北海道に至る日本列島の縦軸として、
日本文化のしっかりした基盤を作っており、横軸として弥生文化や外来文化が入ってきたが、
1万2000年間、切れることなく1本の糸がつながっているということです。
これが朝鮮文化や中国文化と異なる日本文化の独自性につながっています。
日本地図を広げますと、沖縄から北海道まで黒潮とその支流の対馬暖流、中央部は山岳地帯と2つの縦軸が
海の幸と山の幸をもたらしてきました。神道の起源は縄文時代からの山岳・磐座(岩倉)信仰に根ざしているようです。
弥生時代については朝鮮半島や中国の横軸からの影響に主点が置かれていましたが、縦軸が横軸の影響を受けながら、
どのように変化していったのかの視点が重要で、考古学的な発見や神社の歴史、古墳時代からの天皇制も
1本の糸の延長線の中で考えていく必要がある、というのが私の結論です。

(古代史に関する3つの誤り)


話が少し硬くなりましたが、恐らく1万2000年の間、分断されることなしに1つの糸でつながってきた国は、
世界の中で恐らく日本だけではないかと思います。中国にせよ、インドにせよ、ヨーロッパにせよ、
古代から遊牧民の侵入が繰り返されて、何度か糸が切れています。これが日本の特色ですが、
反面、一度常識化してしまうとその誤りを是正していくのが難儀な社会でもあります。
私の吉備説はこれまでの常識をくつがえす説ですが、白い目に耐えながら徒手空拳で、常識の誤りの指摘をしてみます。

1.新井白石・本居宣長以来の誤り


江戸時代から約3世紀に渡って、九州説と大和説を主体に邪馬台国所在地論争が続いていますが、
「なぜ結論が出ないか?」と言いますと、新井白石も本居宣長も弥生後期に吉備と讃岐を中心とした地域に
強大な連邦が存在したことに気がつかなかったからです。
この一因は、3世紀後半に大和政権が日本統一(北九州から関東地方まで)を果たした時点から、
吉備・邪馬台国の存在を消しゴムで消す努力を必死にしたからです。
3世紀後半(280年〜289年)に中国の「三国志」の魏志倭人伝が邪馬台国を紹介していなかったら、
日本の古代史は邪馬台国抜きで論議されてきたでしょう。
卑弥呼は「鬼道に仕え、よく衆を惑わす」の一文から、神秘的な邪馬台国と卑弥呼のイメージができあがってしまったことも、
諸説紛々となった原因です。
実際は神道の儀式を垣間見た訪問者の旅行記から、魏志倭人伝の作者である陳寿は中国の揚子江周辺の鬼道を
イメージしただけの話に過ぎないようです。

2.神武天皇2600年説は誤り


神武天皇が2600年前の縄文時代晩期に大和を建国したとする説は日本書紀の年代基準にもとづいています。
伊勢神宮を筆頭に、訪問した多くの神社でも、神武天皇2600年説、崇神天皇2000年前説で由緒書きが書かれていますが、
そろそろ是正する必要があると思います。
2600年説ができた理由は比較的単純です。7世紀後半から8世紀の初めに飛鳥の宮廷の渡来系の学者が
「三国志」の魏史倭人伝を読み、神功皇后と卑弥呼ないし台与を同一視して年代設定の基準としたからです
(日本書紀・神功皇后紀39年と40年)。これに中国の陰陽五行説を加えて神武天皇2600年説を創作しました。
2600年前というと、インドの釈迦、中国の孔子や諸子百家が活躍した頃です。
折りから唐と新羅に対するナショナリズムを高揚しなければならない時期で、
日本国の祖も釈迦や孔子と同じ時代だと自慢できるわけですから、宮中も大満足したことでしょう。

3.欠史八代説は誤り


欠史八代は、神武天皇から第9代目の開化天皇までは7世紀後半から8世紀初めの宮廷で創作された物語で、
実在しなかったとする説で、現在の学会の主流となり、大和の発生や邪馬台国論争も、これにもとづいて論議されています。
理由は
@実在の人物が百歳以上も生きれるわけがない、
A津田左右吉氏による継体天皇以前の天皇創作説、
B第2次世界大戦以前の軍国主義と国家神道への反発、
の3点です
しかし、欠史八代が事実だとすると、一体、誰が3世紀前半から後半にかけて大和朝廷を打ち立てたのかは、
いまだに不明瞭です。欠史八代説が逆に事実追求の足かせになっています。
古事記や日本書紀の天皇記・紀を素直に読み直して、考古学的な発見や神社史等と照らし合わせていく必要がありますし、
いずれ御所市のJR御所駅から掖上駅周辺で巻向以前の王宮跡が出土すると考えます。

その2 邪馬台国・九州説、大和説等への批判と自説の吉備説


1.九州説への批判


@魏志倭人伝の作者の判断ミス

九州説の基本は魏史倭人伝の「不弥国から南に向かって投馬国、さらに南に行くと邪馬台国に至る」と
「女王国から以北の戸数や距離は分るが」が根拠であると思います。
その後、「中国東南部の会稽東冶の東」と続いています。
これを素直に捉えると沖縄諸島の可能性が出てきますが、作者の陳寿が参考にした、実際に邪馬台国を訪れた人物の旅行記には
「東に向かって投馬へ」、「女王国から以西は」と記載されていたのですが、陳寿は「会稽に近いはずだから、
そんなはずはない」と東を南に、西を北に変えたのが妥当と考えます。

A壱岐の原の辻遺跡と伊都国を凌ぐ王都が見当たらない

明らかに国の王都であったと見なされる、壱岐の原の辻遺跡や前原市の伊都国遺跡を見た目で、
九州各所を見てみると、弥生時代後期から終末期に明らかに王墓があったと見なすことができる大規模集落が見つかっていません。
都市機能が分散していたとする説もありますが、邪馬台国は堅固な支配体制ができており、拡散した都市連合は考えられません。

B日本神話の主要な神々との関連性が見つからない

九州説の最大の弱点は、スサノオ系譜や五伴緒など日本神話を構成する主要な神々の痕跡が見つからないことです。
仮に九州北部や西部の勢力が大和に移動したとする場合、久留米の高良神など地元の神が日本神話に登場するか反映されているはずです。
唯一の接点はアマテラスと日向の神武神話ですが、神武天皇が実在したのは1世紀後半で卑弥呼の3世紀前半と時期が異なり、
祖神のアマテラスと太陽神オオヒルメの融合、出雲の国譲り神話や高千穂神話は、
崇神天皇の後の垂仁天皇から景行天皇の時代の宮廷で創作されたと考えます。
C九州から大和への遷都ないし移住はそれほど容易ではない

世界各国の歴史を見ますと、首都の移転はそれほど容易に行えるものではなく、209年の高句麗の遷都も魏と公孫氏に攻められて、
やむをえずの逃避でした。
2世紀後半の倭国大乱がそれに当たるとの考えもできますが、一人や数人の移動ではなく、数百人以上の移動が必要です。
空を飛べたわけではなく、九州と大和の間に強力な水軍を持つ吉備・讃岐勢力がいたわけですから、大和への簡単な移動は不可能ですし、
九州勢力が吉備・讃岐勢力と合流した場合、何らかの伝承か神話が残っているはずです。

(1) 筑後川周辺説

甘木、吉野ヶ里、久留米の三角線内に、王都を偲ばせる大規模遺跡が発見されれば、邪馬台国の可能性はあります。
しかしそれを彷彿させる遺跡は発見されていませんし、むしろ筑後川を挟んで、3地区が対峙していた可能性が高いようです。

@甘木周辺

実際に平塚川添遺跡から大己貴神社まで歩いてみましたが、王都を偲ばせる雰囲気が漂わず、
甘木周辺説は10を知って1を語るのではなく、1を知って10に拡大解釈している印象を持ちました。
卑弥呼とアマテラスが同一人物で、その子孫の神武天皇が甘木から大和入りした、とされる説も江上波夫氏の騎馬民族説の亜流で、
時代考察が誤っています。
自説では、甘木周辺が弥生後期の吉備・邪馬台国、古墳時代初期の大和の支配領域の国境線地域と考えます。
平塚川添遺跡の最盛期は弥生終末期で、環濠が多重にも及んでいることは、戦争の恐れが高い国境の町であったことを示しています。
大和に共通する地名が多い理由は、大和の兵士が故郷にちなんで名づけたからだと推測します。

A吉野ヶ里周辺

大規模遺跡ですが、最盛期は1世紀半ば頃で、卑弥呼の3世紀前半とずれます。出土物から見ても、王都ではなく県都の印象を与えます。

B久留米周辺

高良山と高良大社の麓地帯の御井地区は縄文時代から古墳時代に至るまで栄えていたようで、強く印象づけられました。
周辺は市街化が進んでいますが、残念ながら弥生後期から終末期の大規模遺跡は発見されていません。
八女市まで下ると熊本文化の影響が出てきますので、吉野ヶ里勢力と熊本勢力に挟まれて、強力な王国は誕生しなかったようです。

(2) 玄海灘周辺説

宗像、遠賀川河口の芦屋町、飯塚市の立岩遺跡は不弥国の候補地ですから、邪馬台国の候補からはずれます。
伊都国は、弥生中期だけでなく、弥生後期まで日本の中心国で、弥生中期の三雲南小路遺跡、後期初め頃の井原鑓溝遺跡から
弥生後期後葉の平原遺跡まで、約200年間王国が栄えたとする説があります。しかし、その間を結ぶ王たちの王墓は今のところ、
発見されていません。吉備・邪馬台国の傀儡王国が倭国の大乱時に、吉備の支配力が緩んだために
一時的に独立性と栄華を取り戻したのが平原遺跡と推察します。

(3) 九州東部沿岸説

@宇佐周辺

宇佐神宮に行くまで気がつかなったのですが、宇佐神宮が八幡神の根本社となったのは6世紀半ばの欽名天皇以降で、
それ以前は奥山の御許山の宗像三女神が主体だったようです。
宗形―宇佐―愛媛・大三島―讃岐・吉備を結ぶ交易ルートがあったようで、1世紀後半の神武天皇伝説とつながりますが、
3世紀の大規模遺跡は発見されていない状況です。

A日向周辺

神武天皇が宮崎市周辺の出身であることは間違いないと考えますが、一族が大和に山幸彦・海幸彦神話をもちこんだのは
1世紀後半頃から2世紀初め頃と推定しています。吉備・邪馬台国文化圏はこの地域にも及んでおり、崇神天皇末期に大和の支配下に入り、
垂仁・景行時代に高千穂の高天原神話、西都原の古墳群が始まったと考えます。

2.大和説への批判


(1) 大和が敵国の拘奴国であったはずがない、という固定観念

大和説では拘奴国は東海地方と見なされていますが、神話と神社を追っていくと、大和は伊勢、尾張を支配下に置いた後に、
吉備を凌ぐ勢力に伸張したことを分析できます。
大和盆地は沿岸部から離れており、資源的に見ると大和盆地自体はそれほど豊かな土地ではないようです。
飛鳥、奈良、京都が王都であったプライドが、大和は邪馬台国の敵国だっとする考えを頭から否定させているようです。

(2) 吉備・讃岐・九州勢力の進出説

2世紀末の倭国の大乱の前後に吉備と讃岐勢力が九州勢力と共に大和に進出して、巻向に邪馬台国を打ち立て、
巻向に新首都を建設したとした場合、何らかの伝承が残されているはずです。
また、なぜ出身地の吉備を再度、征服する必要があったのかの説明が必要です。

(3) 巻向以前の御所市に存在した王朝の無視

記紀を素直に読んでいくと、2世紀から3世紀初めにかけて御所市に王宮がありました。
第5代の孝昭天皇は「池ノ内」、第6代の孝安天皇は「室」に王宮があり、陵墓も近くにあります。
JR和歌山線の御所駅から掖上駅に至る周辺、ことに池ノ内と室に王宮跡が眠っているはずです。
幸い、この地域はまだ市街地化していませんので、いずれ遺跡が発見されると期待しています。

(4) 卑弥呼・台与とその後の大王が論理的につながらない

しばしば指摘される点ですが、邪馬台国の卑弥呼―台与から大和政権の男王へのつなぎが不明瞭です。
やはり、邪馬台国は別の地にあると考えた方が妥当です。

3.四国・日本海説


近年、出雲の西谷墳丘墓・荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡、伯耆の妻木晩田遺跡、因幡の青谷上寺地遺跡、丹後半島など、
日本海地方から大規模遺跡が出現して、四国説に加えて、邪馬台国・日本海説も登場しています。
私は、四国説、日本海説とも、吉備・邪馬台国圏内の残存を素材にされていると推察しています。
四国山上説は「神秘的な邪馬台国」のイメージからの連想と思いますが、山岳部に大きな都市が発展するのは
広大な盆地がない限り不可能です。
丹波地方は宮津市・天橋立までの地域と丹後半島地域の2つに分けて考察する必要があります。
天橋立までの丹波地方は、弥生終末期に大和の支配下に入りましたが、丹後半島が大和に征服されたのは、
崇神王朝時代の日子坐(ひこいます)王以降です。従って弥生終末期に大和・邪馬台国の外港であった可能性は薄くなります。

4.自説の吉備説


(1) 吉備・邪馬台国の興亡


弥生前期は吉備より近畿地方の方が栄えていたようですが、弥生中期前葉に讃岐・備前・美作を縦軸とした吉備・讃岐勢力が勃興し、
中期中頃(0年前後)に日本海側の出雲と伯耆も勢力圏におさめ、淀江が吉備・邪馬台国の外港になる。
吉備・邪馬台国は弥生後期初め頃、日本の中心地だった北九州まで支配下に置いて、倭国の覇者となり、伊都国は傀儡王国となった。
2世紀後半に楯築王の下で絶頂を迎えたが、楯築王の死後、後継者をめぐって、倭国の大乱が発生した。
200年頃に王族の血を引く卑弥呼が女王に就任することで大乱が収拾し、一時的に吉備・邪馬台国の秩序が戻る。
その間、神武天皇が打ち立てた大和・拘奴(葛)国が東海地方を支配下に置いて勢力を高めた。
富士山の爆発もあり、避難民が尾張、伊勢地方に逃亡したことに困った大和は近江、山城、摂津を攻め、
その後、播磨を拠点に吉備攻略を開始した。
卑弥呼は魏に支援を求め、大和の攻撃は小休止となる。
卑弥呼の死後の後継者騒動を経て、台与が女王に就任するが、同時に大和が攻撃を再開。ついに邪馬台国が崩壊し、
台与は大和に招聘される。大和の支配下に置かれた吉備・邪馬台国圏の捕虜や住民は、戦いの前線や関東地方の開拓に送りこまれた。

(2) 投馬国の候補地


@安芸・広島市太田川河口地域
山口県の海岸沿いを進むルートで、宮島を過ぎて太田川河口の西部と東部地区。東部は神武天皇の滞在伝説がある多家神社に近い。
大規模な遺跡はまだ発見されていませんが、廿日市市に近い西部にはかなりの弥生遺跡があるようです。
A出雲・出雲大社周辺
「投馬国から水行10日、陸行1月」を「海路を10日進んだ後、陸路で1ヶ月」と読むと
投馬国は出雲の杵築郡の出雲大社と神門水海地域が考えられます。そこから舟で吉備・邪馬台国の外港である淀江に行き、
淀江から陸路、足守河口の吉備津まで向かうという行程です。

(3) 吉備・邪馬台国の3種類の交易集団


@ムナカタ海人
北九州の宗像を基地とした船乗り集団。祭神は宗像三女神で、分布を追っていくと瀬戸内海と日本海の淀江近辺までを主体としている。

Aイソタケル海人
朝鮮半島を基地とした三韓系の船乗り集団。祭神はスサノオの息子で朝鮮半島から木々の種をもたらしたイソタケル。
太平洋側は紀伊半島、日本海側は佐渡島までと活動地域が広い。

Bツキヨミ海人
壱岐島を基地とした船乗り集団で日本海が主体。日本神話では、アマテラスやスサノオに較べて、ツキヨミの存在感が薄く、
永らく根源社を模索しました。鳥取県の大山の神様がツキヨミですと自説にぴったりなのですが、どうやら壱岐の海人の祭神だったようです。
但し、壱岐の月読神社が神道発祥の地であるという説がどうしてなのか理解できません。
それほど重要な神社であるなら、ツキヨミを祭る全国の神社が現状よりももっと立派な本殿を造ってあげて欲しいと感じます。

その3 弥生時代から古事記・日本書紀成立までの概略史


弥生時代の年代基準の相違に悩んでいます。先進地だった九州と、距離的に遠い吉備・出雲、近畿地方で
時代の流れの差が生じることは当然ですが、ことに中期末と後期の始まりで約70年の差があります。
印象としては九州では中期と後期の始まりをより早く判断されているようです。
各説を整理しますと、弥生中期は「前200年〜前170年」から「0年〜70年」、弥生後期は「0年〜75年」から「200年〜270年」となります。
また、後期を後期と終末期の2つに分ける説があり、
2世紀末の倭国大乱以前を後期に見なすと後期は「175年頃まで」、終末期は「175年頃〜270年頃」となり、
以後と見なすと後期は「200年頃まで」、終末期は「200年頃〜270年頃」となります。
この中で、私は、弥生前期:前170年頃まで、弥生中期:前170年〜75年頃まで、
弥生後期:75年〜200年、終末期:200年〜270年頃、を基準としました。

1.弥生早期・前期(前500年頃〜前170年頃)


中国の春秋・戦国時代の影響を受けて、渡来系が西日本に渡ってきました。最初は朝鮮半島南部からが主体でしたが、
揚子江河口地域からの直接渡来もあったようです。渡来人は瀬戸内海の東端の淡路島地域まで比較的早く達したようです。
(九州地方)板付遺跡等で環濠を伴った水稲文化が始まる。支石墓・甕棺墓・箱式石棺墓。
(中国地方)岡山市津島江道・南方遺跡等。
(近畿地方)池上曽根遺跡や唐古・鍵遺跡の始まり。揚子江河口地方のイザナギ・イザナミ神話が伝わり、
摂津・淡路島周辺でイザナギ国生み神話が生まれる。方形周溝墓が登場。

2.弥生中期前葉(前170年頃から0年頃)


各地で渡来系と土着の縄文系の融合が始まる。
(九州地方)前194年の衛氏朝鮮の成立と前109年の前漢の植民地化で、朝鮮半島との交易が拡大。
伊都国の住民が壱岐の原の辻遺跡に定住。
(中国地方)備前・美作地方にイザナギ神話が伝わる(那岐山)。吉備讃岐勢力の勃興。
(近畿地方)池上曽根遺跡が発展。近江地方にイザナギ神話が伝わる(多賀大社)。

3.中期中葉(0年前後)


(九州地方)伊都国が絶頂期に(三雲南小路遺跡)。
(中国地方)吉備讃岐連合が伸張。瀬戸内海地域に高地性集落が増加。津山盆地を中心とした地域で、
高天原神話・ヤマタノオロチ神話が成立。分銅形土製品の登場。
吉備勢力が、出雲を2方向(@美作―淀江・妻木晩田遺跡―松江―荒神谷遺跡、A備後―簸の川―加茂岩倉遺跡―西谷墳墓群)から攻略して、
出雲の本拠地の杵築郷を征服。出雲の元々の神は島根半島の国引き神話のヤツカミヅオミヅノだったが、
イザナギ・イザナミ―スサノオ―オオナムチ神話がかぶさる。中国山地の四隅突出型墳墓が出雲に伝わる。
(近畿地方)スサノオ系の大年(オオトシ)系神話が伝わる。池上曽根遺跡が全盛。唐古・鍵遺跡が発展(登美王国)。

4.中期後葉(0年頃〜75年頃)


(九州地方)57年に奴国が後漢に遣使(伊都国の可能性もある)。伊都国・井原鑓溝遺跡。
(中国地方)吉備讃岐勢力の瀬戸内海への勢力拡大が続く。
(近畿地方)滋賀県伊勢遺跡。播磨・新宮宮内遺跡が全盛。

5.後期前葉(75年頃〜150年頃)


(九州地方)吉備讃岐勢力が北九州地区まで制圧して、邪馬台国連邦が成立。伊都国が傀儡王国に。九州中部の辺境は甘木市周辺。
(中国地方)吉備讃岐・邪馬台国の首都が備前・山陽町から足守川河口に移る。
107年に師升の遣使。
吉備・邪馬台国の支配体制の確立:王家の下に、―祭祀(政治)は中臣氏(アメノコヤネ、イシコリドメ)、
―軍事は中臣(タケミカヅチ、フツヌシ)、―工人・農民は忌部(アメノフトダマ、タマオヤ)。
(近畿地方)吉備の支援を受けて神武天皇勢力が大和入り。ニギハヤヒの登美王国を破り、御所市周辺に葛国を建てる。

6.後期後葉(150年頃〜200年頃)


(九州地方)倭国大乱の頃、伊都国が独立性を回復し、一時的に繁栄(平原遺跡)。
(中国地方)数代目の楯築王の時代に絶頂期に達したが、楯築王の死後、倭国の大乱(後継者戦争)(出雲勢力、
大三島勢力等、連邦周辺国の圧力が高まる)。青谷上地寺遺跡の虐殺、出雲の西谷墳丘二号墓、特殊器台第1期(立坂形)。
(近畿地方)大和・葛国が伊勢の猿女族を破り、尾張・美濃を征服して、東海地方に進出。神武一族の東海地方開拓の開始。

7.弥生終末期(200年頃〜270年頃)


(吉備・邪馬台国と大和・葛国の攻防)
王族の卑弥呼の擁立で倭国大乱が終焉。楯築遺跡で卑弥呼の就任式。
卑弥呼の治世下で、邪馬台国は秩序を取り戻す。特殊器台第2期(向木見形)。
富士山の爆発が続き、難民が尾張・伊勢に押し寄せたことから、大和の膨張が開始(近江・山城・丹波・摂津を制圧)。
御所市に代わって、巻向が新都市として発展。播磨を拠点に吉備攻略を開始。尾張軍と物部軍。
卑弥呼、魏に支援を求める。
卑弥呼の死と後継者紛争の後、讃岐出身の台与が女王に。

8.古墳前期(270年〜365年頃)


(1) 開化天皇
大和の攻撃が高まる。台与が西晋に支援を求めるが、大和に降伏。吉備讃岐・邪馬台国の終焉。台与は大和に迎え入れられ、
倭トトヒモモソ姫として遇される。
(2) 崇神天皇
九州地区(甘木市から久留米、宇佐から西都原まで)、丹後半島、北陸、関東地方と、勢力範囲を拡大。
関東地方の開拓で、吉備讃岐圏の捕虜や住人が送り込まれる。
台与の自害と箸墓。特殊器台第3期(宮山形)。出雲の征服。
(3) 垂仁・景行天皇
吉備讃岐・邪馬台国神話に大和建国神話と出雲国譲り神話を融合させた日本神話の成立。伊勢神宮、鹿島神宮、高千穂神社などの創建。
日向の高千穂など、各地に高天原神話ができる。聖山・磐座信仰から拝殿・本殿建築の神社体系の確立。
景行天皇の後半に宮廷が爛熟(景行天皇の子供は約80人を数える)。九州、関東地方で反乱が増える。
(4) 神功皇后・武内宿禰のクーデター
南九州制圧派と新羅征伐派の2派が対立。
神功皇后軍が鉄資源の確保を主体に新羅を攻め、任那に拠点を作った後、景行天皇へのクーデター。
景行天皇は近江に遷都して成務天皇が即位し、神功軍を迎え撃つが敗北。

9.古墳中期(370年頃〜510年頃)


応神王朝の確立。
任那を通じて、騎馬文化、須恵器・穴窯、砂鉄製造技術等が伝わる。
祖神ヤマトタケル神話と住吉信仰が作られる。

10.古墳後期から奈良時代初め(500年〜714年)


継体王朝の成立と磐井の反乱(527年)。
6世紀半ばに、欽名天皇が宇佐八幡信仰を高めて、初めて神道と仏教が融合。武神がフツヌシから八幡神に代わっていく。
7世紀前半(620年頃)に聖徳太子と蘇我氏が天皇記・国記作成の試み。
663年に白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れ、唐・新羅軍の日本襲来の恐れが高まる。
672年の壬申の乱後、天武天皇が国史の作成を命じる。日本書紀の編纂が始まるが、古事記が先に712年に成立。日本書紀が720年に成立。

その4 八百万神の現代的な意義


私の学生時代の夢はいつかは津田左右吉氏を越えることでした。早稲田大学第一文学部の東洋哲学課に進んだのも、
津田氏が開設したからです。しかし当時の東洋哲学課は骨董的な仏教界の色彩が強くてあまり肌が合わず、
また学園紛争が激しかった頃でした。
仏教の原点を求めてインドに行きましたが、原始から現代までの人間がごたまぜになったインドの生々しい人間社会に
強烈なカルチャーショックを受け、人生観が変わりました。
その後、白人社会というより、世界中の移民者が集まる人種交錯社会への移行過程にいるヨーロッパで生活してきました。
その間、日本人は地球社会の中でどのように生きていくべきかを自問自答してきました。
この気持ちは日本列島の温室に住む人たちよりも、強いのではないかと思います。
30数年があっという間に過ぎ、孫もいる歳になって、西日本を主体に神社や遺跡巡りをするようになるとは予想だにしませんでしたが、
邪馬台国・吉備説を通じて、ようやく長い間の霧が晴れてきた気がします。
19世紀の半ばにトーマス・ブルフィンチ氏が書いた「ギリシャ・ローマ神話」(野上弥栄子訳。岩波文庫)を読みますと、
ギリシャ神話などの多神教神話を「異端の神話」、「古代の迷信」と断言しており、驚愕します。
明治維新後、欧米の植民地・帝国主義に対抗する形で、日本の国家神道はキリスト教やユダヤ教の一神教に逆影響を受けて、
アマテラス一神教に行き過ぎた、と思います。
しかし20世紀後半から、他者を攻撃して自己の領土を拡大していく一神教的な考え方は、
地球の破壊につながっていくと考える方向に、世界の思潮が変わってきました。日本の八百万の神々に加えて、
世界の八百万の神々が集う場所としていくことが、21世紀の地球文化構築に向けての日本の役割ではないかと考えながら、
邪馬台国・吉備説を進めています。

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