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岡山県総社市にある吉備の古代資料館◆岡山県立吉備路郷土館◆
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フランスのパリ在住の新進気鋭のジャーナリストの広畠輝治氏が、「邪馬台国・吉備説 第2部 神話編」 出版のための岡山取材旅行を敢行した
広畠輝治氏は既に「邪馬台国 岡山・吉備説から見た古代日本」を出版しているが、各方面に大反響を呼んだため、好評に応え、第2弾を出版予定
概要の予告編はウェブテレビで紹介(広畠輝治氏の「邪馬台国・吉備説 第2部 神話編」第2弾)しているが
今回の岡山取材旅行は、邪馬台国岡山吉備説を現場で実地検証するため行なわれた
ウェブテレビでは広畠輝治氏の取材に全面協力、倉敷市の日差山、赤磐市の血洗いの滝、佐伯町、岡山市西大寺の安仁神社
岡山市の新岡山港の高島、倉敷市林の熊野神社など同行取材した
広畠輝治氏の第2弾の特徴は神社の由緒来歴、位置などの調査から、邪馬台国の所在地の特定に迫るというところにある
調査範囲も淡路島、香川県、岡山県、鳥取県、島根県、兵庫県、京都府、滋賀県、奈良県、和歌山県、、と広範囲に渡って調査した
広畠輝治氏の調査手法はインターネットをフル活用、あらかじめデータを集め、推論をして重要ポイントを現場調査するという方法である
ややもすると歴史学者などが、文献のみに頼るという調査手法の人が多いが、広畠輝治氏は文献に加えて現場を実地調査するという
科学的、合理的な調査手法を取り入れている 古事記・日本書紀の豊富な知識に加え、現場調査で実地調査するという方法なので
信頼度は高い 第2弾の発売が待たれる
広畠輝治氏によると、邪馬台国 岡山 吉備説を調べれば調べるほど確信度が高まるということである
インターネットの普及で、フランスのパリにいても、十分邪馬台国のことが調べられる、面白い時代になったとも、氏は語る
今後は地元の岡山の人の「邪馬台国 岡山吉備説」の盛り上がりに期待したいとも語っている
斬新な発想で邪馬台国の所在地に迫るジャーナリスト広畠輝治氏の第二弾「邪馬台国・吉備説 第2部 神話編」の早期発売が待たれる

●大好評発売中!第1作「邪馬台国」岡山・吉備説から見た古代日本 広畠輝治著 神無書房 2800円
楽天ブックス、アマゾンなどで好評取り扱い中!
●広畠輝治(ひろはた・てるじ)氏 略歴
在パリ、ジャーナリスト。プレス・ヒロハタ社代表。
1948年、横浜市に生まれる。1970年、早稲田大学第1文学部東洋哲学科卒業。卒論は「原始仏教の研究」。
70年から72年のかけて、インド西北部のパンジャブ地方、アフガニスタン、ネパールに滞在。72年から74年、
ネパールで知り合ったフランス女性と結婚しロワール地方に滞在。74年帰国後、77年まで国際PHP研究所に勤務。
78年に再度、フランスへ。80年からパリでフリージャーナリスト業を開始。
88年 プレス・エージェンシー、プレス・ヒロハタ社をパリに設立、現在に至る
アマノコヤネが祝詞の儀式を行った後、アメノウズメが神々の前で、肌もあらわに滑稽な踊りをすると、
神々は大爆笑。私がいないのに、なぜ神々が大喜びしているのかと不審に感じたオオヒルメが石戸を開けると、
石戸の傍らに待機していたアメノタヂカラオがオオヒルメの手をつかんで外に引き出し、
オオヒルメの背後に注連縄を張って、石戸の中に戻れないようにします。こうして地上は再び明るくなります。
アメノウズメ、アメノコヤネ、アメノフトダマ、イシコリドメ、タマオヤの5神は、
アマテラスの孫のホノニニギの降臨の五伴緒として、オモヒカネ、アメノタヂカラヲ、アメノイハトワケと共に降臨します。
アメノウズメ:椿大神社(三重県鈴鹿市)。ホノニニギの降臨を迎えたサルタヒコと結婚し、
猿女(さるめ)君の祖となる。
アメノコヤネ:枚岡神社(大阪府東大阪市)。祭祀系の中臣氏の祖。
アメノフトダマ:粟井神社・大麻神社(香川県)。忌部氏の祖。
イシコリドメ:中山神社(岡山県津山市)。薬師寺慎一氏によると吉備津神社との関係が深い。作鏡連等の祖。
タマオヤ:玉祖神社(山口県防府市)。忌部氏系の玉祖連等の祖。
このうち、明らかに邪馬台国系と考えられるのは、讃岐を根源地とするアメノフトダマと、
津山市の一の宮である中山神社を根源地とするイシコリドメの2神です。
タマオヤの根源地は山口県ですが、忌部系ですので邪馬台国系と考えても差し支えはないでしょう。
アメノウズメは結婚相手のサルタヒコと一緒に三重県の椿大神社周辺を根源地としていますが、子孫は猿女君です。
元々はサルタヒコとサルメ夫妻であったものが、吉備・邪馬台国神話と狗奴・大和神話が融合する際に、
アメノウズメとサルメが融合したのではないか、と考えます。
残るアメノコヤネの根源地は大阪府の河内の枚方神社ですが、
@中臣系の軍事系の祖先であるタケミカヅチはオオモノヌシの曾孫と古事記の崇神記に紹介されている、
A魏志倭人伝が紹介する邪馬台国の高官に「奴佳とみ(とみの漢字は左が革、右が是)」があり、
「なかとみ」と読むことができる、の2点から祭祀系の中臣氏も邪馬台国系に属すと推定しました。
アメノウズメを除く4神は吉備を根源地とするか吉備とのつながりがあることを考えると、
神道の重要な儀式の1つである天の石戸儀礼は、すでに弥生後期の吉備・邪馬台国で成立していた可能性が高まります。
備前焼き中心地の伊部町にも忌部神社があります。
大和の橿原市にも忌部神社があり、忌部氏の根源地と伝えられていますが、密度の濃さから見ても
根源地は讃岐として間違いはありません。
忌部氏は当時の産業である銅鏡、織物、陶器、玉器などを作る工人と、麻や穀物類など畑作の技術に秀でた農民の、
2つの職業を統率していた氏族でしょう。
果たして吉備に中臣の地名か神社があるかどうか、を探していきますと、
播磨の姫路市から吉備寄りの龍田市に中臣印達神社(祭神はスサノオの息子のイソタケル)が見つかりました。
この地は姫路から美作と備前に進む街道の別れ道にあたりますから、加古川から攻めてきた大和軍を迎え撃つ砦であったことは
想像できます。
播磨国風土記にある、新羅から但馬に移住したアメノヒホコと葦原志挙乎が領土争いをした粒丘にも比定されています。
しかし肝心の吉備には見つかりません。
那岐山から児島半島まで五万分の一地図をつなぎ合わせた自家製の地図を何回もじっくり見ていくと、
播磨側から和気町に福富、熊山町に徳富、瀬戸町に万富、邑久町に大富と「トミ」がつく地名が
幾つか存在することに気がつきました。いずれも吉井川流域にあり、戦略上、重要な場所に位置しています。
オオトミがあれば、ナカトミがあっても不思議ではありません。
古代では音に合わせて適当な漢字が当てられましたから、「臣」でも「富」でも意味は同じと考えて構いません。
吉備津の足守川の近くにも福富がありました。
弥生中期の備前の中心だった山陽町には斎富があります。
「斎」は祭祀を意味しており、祭祀系の忌部氏は斎部(いんべ)とも書きます、
中臣の祭祀系の根源地は斎富ではないだろうか、と予測できます。
蒜山高原を見てみると川上村に正富があり、八束村に富先、富掛田、富山根があり、近くに富村もあります。
岡山県地図で他の地域も見ましたが、富がつく地名は他にはあまり見当たりませんでした。
まだ中臣の根源地が吉備である確定的な証拠をつかんだわけではありませんので、
吉備に中臣氏の痕跡を探す作業を続けていますが、祭祀系の中臣氏は山陽町と蒜山高原を拠点としていた、
軍事系は東からの敵にそなえて吉井川沿いに陣地を築いていた。
吉備が大和に負れた後、祭祀系は河内湾の大和川の河口地域に強制移住となった。
軍事系は河内地方で荒地の開墾をさせられた後、茨城県と千葉県の境にある利根川河口地域に屯田兵として
大和政権から送り込まれた、とするのが私の解釈です。
(お願い:この記事を読まれた方で、山陽町斎富にある神社名と祭神、さらに山陽町から吉井町に至る街道沿いの
神社の一覧表をご存知でしたら、是非ご教示ください)
@千葉県:安房の館山神社の祭神は忌部系のアメノフトダマで、神武天皇の時代に四国の阿波からアメノフトダマの孫の
アメノトミが移住した伝説があります。房総半島には佐貫(さぬき)町もあり、麻の栽培に関連する麻賀田神社もあります。
A利根川河口:鹿島神宮の祭神は軍神のタケミカヅチ、香取神宮の祭神は剣神フツヌシです。
共に中臣系ですが、神武天皇が紀伊半島の熊野から大和に攻め込む際と、出雲の国譲りの際に活躍します。
B茨城県:筑波山はイザナギ・イザナミ降臨の地で、高天原もあります。
北部に多賀山地もあり、新井白石はこの地を高天原としています。
C武蔵(埼玉県・東京都):氷川神社が各所にありますが、根源地は大宮市の氷川神社で、祭神はスサノオ。
第5代目の孝昭天皇の時代に出雲から武蔵に開拓民が移住したという伝承があります。
D栃木県・福島県:都都古別(つつこわけ)神社の祭神はアジシキタカヒコネです。
出雲のオオクニヌシと宗像三女神のタギリ姫の息子ですが、大和の御所市の高鴨神社の祭神でもあります。
E静岡県富士山麓:静岡県三島市の三島大社の祭神はオオヤマツミです。
オオヤマツミの根源地は愛媛県の瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山ずみ神社です。
瀬戸内海の大三島と三島市がどうつながるのか、最初は理解できませんでしたが、
同じ駿河の富士宮市にある富士山本宮浅間神社の社伝によると、孝霊天皇の時代に富士山が噴火して人民が逃散じ、国中が荒れた。
垂仁天皇の時代に浅間神社を建立し、山霊を鎮めた、とあります。
このことから、垂仁天皇の時代に富士山麓の復興に向けて、大三島周辺の人民が送り込まれた、と想像できます。
ちなみに浅間神社の祭神はオオヤマツミの娘コノハナノサクヤ姫でホノニニギの后でもあります。
以上の事例から、古代のある時点で、ある強力な権力が、備前・美作、讃岐・阿波、出雲、大三島から
開拓民を各地に送り込んだことが分かります。
明治維新後、徳川幕府側についた藩の臣下が、勤王派に負れた後、屯田兵として北海道に送り込まれたことと同じ図式ですが、
ある強力な権力とは大和朝廷であることは申すまでもありません。
九州遠征には后の神功皇后も同伴し、あくまで九州の原住民を征服しようとする仲哀天皇と
新羅を攻略すべきとする神功皇后、武内宿禰とが対立し、仲哀天皇の急死により、神功軍は新羅に攻め込みます。
この神功皇后は第2次世界大戦までは日本の大陸進出の守り神として、紙幣の肖像にも登場していました。
戦後は欠史8代と同様に、神功皇后と武内宿禰は後代の宮廷で創作された架空の人物として処理されています。
私は神功皇后は実在し、新羅の一部を攻略したことも史実であると考えます。
理由は神功皇后の母方の祖先は新羅から但馬に移住したアメノヒホコで、垂仁天皇に託されて朝鮮半島に
香菓を求めに出かけた田道間守もこの一族です。
この一族は葛城氏として応神朝の外戚となりますが、日本と朝鮮半島との交易にも従事していたようです。
ですから神功皇后も一族を通じて新羅の動向もつかんでいたと理解できます。
景行天皇は末期に突然、近江に遷都し、息子の成務天皇も近江で即位しますが、素直に解釈していくと、
新羅から凱旋した神功皇后と武内宿禰がクーデターを起こし、景行親子は近江に遷都して対抗したものの神功皇后軍に敗北し、
応神朝が誕生します。
神功皇后の息子の応神天皇は景行天皇の後継者の一人であった五百城入彦の孫にあたる3姉妹を后に迎えることにより、
景行天皇までの王朝との継続性を正当化しますが、同時に祖先神としてヤマトタケル神話を作り、
神功皇后と応神天皇が実質的な祭神である八幡神社(根源社は宇佐神宮)を全国津々浦々に建立していきます。
日本書記の編者は、魏志倭人伝で卑弥呼を見つけ、卑弥呼と神功皇后を同一視するというミスを犯しています。
編者は、これで各天皇の年代を割り当てる基準ができたと狂喜したことでしょうが、
このミスが今日まで古代史の解読を混乱させる一因になってきたことに苦笑していることでしょう。

しかし私はスサノオの根源地は出雲ではなく、備前・美作と考えています。
スサノオは島根県と鳥取県の境にある鳥髪山に降り立ち、島根県側の斐伊川(氷川)に下ったとされていますが、
出雲風土記にはこの話はうっすらとしか紹介されていません。
鳥髪山から鳥取県の米子に流れる日野川(ひのがわ)も氷川と言えますし、
蒜山高原を源流とする旭川も古代は日川(ひかわ)と呼ばれていた、という説もあります。
第2は、九州の神々を見ていきますと、地域ごとの土着の神の存在が強いことです。
ことに西九州は筑後が高良玉垂(久留米市の高良大社)、肥前がヨド姫(淀姫神社)、
肥後がアソツ姫と神武天皇の孫と伝えられるタケイワタツ(阿蘇神社)に明確に区別できます。
このことは筑後、肥前、肥後にはそれぞれ強力なクニが存在し相争っていたが、
統一王国、統一文化の発生にまでは至らなかったことを意味しています。
現在、邪馬台国と天の石戸・九州説の先鋒は「邪馬台国の会」を主催される安本美典氏だと思いますが、
なぜだか弥生後期の吉備を評価されていません。
ホームページの安本氏のプロフィールを拝見すると生まれは満州だが、育ちは岡山県高梁市と知って意外でした。
岡山県に何か嫌な思い出があるのかも知れないと想像したりします。
自説では、弥生中期の日本の中心だった筑前を吉備・邪馬台国が支配して弥生後期を作り、甘木市周辺までを支配下に置き、
古墳時代に大和が吉備勢力にとって代わった、と考えます。
甘木市周辺は筑後との境界地区で、そのため吉備・邪馬台国や大和の神も残存しているわけです。
高天原のもう1つの候補である日向の高千穂も周辺の古墳ができた時期を考慮すると、
応神王朝の時代に作られたと考えるのが妥当と思います。
南葛城地方の御所市を中心に建設された狗奴(葛)国が、吉備・邪馬台国の影響が及んでいなかった
伊勢、美濃、尾張の東海地方を支配した時点で、大和の支配を正当化する目的で、大和神話が創られたと考えます。
アマテラスは孫のホノニニギをお供と共に日向の高千穂の峰に降臨させますが、
その時、伊勢に住むサルタヒコが出迎えに参上しました。
降臨が無事に終わった後、サルタヒコは伊勢に戻り、ホノニニギはオオヤマツミの娘のコノハナノサクヤヒメと結ばれ、
ホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホヲリ(山幸彦)を産み、末弟のホヲリが神武兄弟の祖となります。
その後、神武兄弟は大和に攻め込み、大和から伊勢、東海一帯を治めるようになりました・・・というアラスジです。
ホノニニギは最初に大和の金剛山に降臨した後、日向の高千穂に移動した、という話も考えられます。
このアラスジを神社の分布から追っていきます。伊勢地方の土着神サルタヒコは鈴鹿市の椿大神社(つばきおおかみやしろ)と
都波岐(つばき)神社が根源社です。
愛知県一宮市の真清田(ますみだ)神社の祭神はホノニニギの兄のアメノホアカリと息子のアメノカグヤマです。
アメノカグヤマが大和の葛城国高尾張邑から当地に来て尾張の国を建国した、と伝えられています。
この大和神話の原形は第5代目の孝昭天皇、第6代目の孝安天皇の頃に成立したのではないかと考えます。
欠史8代説の根拠の1つは、欠史8代に関する古事記と日本書紀の記述が少ないことにありますが、
狗奴国の王も当初は自国が日本を征服するようになるとは予想だにせず、朝廷の記録も小国レベルに留まっていたわけです。
@太陽神オオヒルメと大和の祖神アマテラス
Aスサノオとオオヒルメの対決で生まれた五男三女の長男のアメノオシホミミがアマテラスの息子、ホノニニギの父になる。
ちなみにアメノオシホミミは福岡県田川郡の英彦山(ひこさん)神宮の祭神です。
Bアメノウズメとサルメ(猿女)の三神を同一神とすることで論理づけされました。
具体的には相撲の祖先である野見宿禰を代表とする出雲の兵士を大和の警護役に抜擢したことです。
それまでの警備役だった八咫烏(カモタケツヌミ)は京都に移動し(賀茂神社)、
高鴨神社の祭神はカモタケツヌミから出雲のオオクニヌシの息子アジシキタカヒコネに、
鴨都波神社の祭神はオオクニヌシの別の息子コトシロヌシに変ります。
これは明治維新後、敵方の幕臣だった勝海舟や榎本武揚が重用されたことと共通します。
勝海舟は内政、榎本武揚は外交のスペシャリストでした。新政府は彼らの経験と知識を必要としました。
中臣氏と忌部氏が復活した理由は一大国を運営していく祭祀のノウハウを持っていたからです。
逆に言えば、弥生中期から後期に吉備・邪馬台国で確立した祭祀儀式が現代につながる神道の基礎となった、とも言えます。
伊勢神宮も中臣氏と忌部氏の家系が禰宜を務めています。
邪馬台国の残党の中から、武人系の中臣(藤原)鎌足の子孫が抜け出し、藤原氏は奈良朝を経て平安朝で天皇家の外戚として
黄金時代を迎えます。
その根源は吉備・邪馬台国だったと考えると、弥生時代後期から平安時代まで、
水面下で吉備・邪馬台国が生き続けていたという大ロマンになります。
天智天皇は663年に南朝鮮の白村江の戦いで唐と新羅に敗北した後、唐と新羅の連合軍が
本当に日本に攻めてくると覚悟したのでしょう。北九州や瀬戸内海の各地に高地性の砦を建設していきます。
同時に国内の中央集権化が強化されます。
これは弟の天武天皇にも受け継がれ、伊勢神宮が国家の最高位に位置するようになりますが、外敵から守るために
国内の中央集権化を強力に進める点では明治政府と非常に共通性があります。
その一方で、藤原氏は仏教との融合化に進み、平安時代に吉田神道を完成させます。
吉備・邪馬台国をキーワードとして古代を見ていくと、これまでの常識とは異なったストーリーが出来上がりました。
岡山の皆様と共に、改めて吉備・邪馬台国から平安時代、さらに現代に至るまでの日本人の歴史と文化を
再考察していきたいと考えています。
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