広畠輝治の「邪馬台国 岡山・吉備説」 − ウェブテレビ webtelevi.com
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貴重な画像がいっぱい!必見の価値あり◆岡山大学埋蔵文化財調査研究センター◆
岡山市の吉備津神社の上にある古代吉備研究センター◆岡山県古代吉備文化財センター◆
岡山県総社市にある吉備の古代資料館◆岡山県立吉備路郷土館◆
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広畠輝治さんは、フランスのパリ在住の新進気鋭のジャーナリスト
日本の古代史にも非常に詳しく、古事記・日本書紀を精読して 遂に「邪馬台国 岡山・吉備説」の仮説を立てた
神無書房から「邪馬台国 岡山・吉備説から見る古代日本の成立」という本を出版 大反響を呼んだ
フランスのパリで国際派のジャーナリストとして大活躍、真実を追究する真のジャーナリストという評価を得ている
その新進気鋭のジャーナリストの広畠輝治氏が、ウェブテレビに特別寄稿
ウェブテレビに、時期出版予定の「邪馬台国・吉備説 第2部 神話編」の予告編を特別に出稿して頂けることになった
日本の歴史学会に大反響を呼んだ第1作に続き、第2作の予告編がウェブテレビで見られる 読者はラッキーです
第2作目の「邪馬台国・吉備説 第2部 神話編」は、神社史から邪馬台国に切り込むという大胆な手法です
1、「邪馬台国 岡山・吉備説から見た古代日本の成立」の補足
2、高天原は吉備の蒜山高原
3、邪馬台国の中臣氏と忌部氏
4、邪馬台国圏の捕虜たちが屯田兵として関東地方を開拓した
5、邪馬台国・吉備神話と狗奴国・大和神話が融合して、日本神話の原形が成立した
題名を見るだけで、胸がワクワクするような内容ですが、早く見たいものです
近日中に、このページにアップする予定です 乞う、ご期待!
長らく 邪馬台国の所在地をめぐって、やれ九州だ、やれ大和だと混迷を続けてきたが
広畠輝治氏が最後に真打登場で最終結論を出すか?邪馬台国 岡山・吉備説
みなさま、長らくお待たせしました 最終決定 邪馬台国は吉備国だった!
次回からの広畠輝冶氏の特別寄稿に、ご期待ください!「邪馬台国・吉備説 第2部 神話編」
●大好評発売中!第1作「邪馬台国」岡山・吉備説から見た古代日本 広畠輝治著 神無書房 2800円
楽天ブックス、アマゾンなどで好評取り扱い中!
●広畠輝治(ひろはた・てるじ)氏 略歴
在パリ、ジャーナリスト。プレス・ヒロハタ社代表。
1948年、横浜市に生まれる。1970年、早稲田大学第1文学部東洋哲学科卒業。卒論は「原始仏教の研究」。
70年から72年のかけて、インド西北部のパンジャブ地方、アフガニスタン、ネパールに滞在。72年から74年、
ネパールで知り合ったフランス女性と結婚しロワール地方に滞在。74年帰国後、77年まで国際PHP研究所に勤務。
78年に再度、フランスへ。80年からパリでフリージャーナリスト業を開始。
88年 プレス・エージェンシー、プレス・ヒロハタ社をパリに設立、現在に至る
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2004.12.1広畠輝治氏・邪馬台国・岡山吉備説 特別寄稿 第1弾!
「邪馬台国・吉備説 第2部 神話編」の予告編
文筆:広畠 輝治
広畠輝治の「邪馬台国 岡山・吉備説」第2弾へ
その1.拙著「邪馬台国 岡山・吉備説から見た古代日本」の補足
(弥生後期は吉備が日本の中心地)
拙著がウエブテレビさんで大きく紹介されて驚きましたが、「吉備・邪馬台国の会」も発足しましたので、
私も吉備説に関心をお持ちの方々との交流を深めていきたいと思います。
私がまだ知らないことを教えていただくようになるかも知れませんが、現在制作を進めています
第2部「神話編」の予告編を5回に分けてご紹介させていただきます。
私は地縁も血縁も岡山とはご縁はありませんが、古事記を再読して邪馬台国は吉備と閃いたのは、長年外国に住んでいるため、
日本全体を覆う「常識」という空気に洗脳されていなかったからではないかと感じています。
考えてみると、吉備と讃岐は九州、出雲、大和を結ぶ三角線の中心部に位置しており、江戸時代の新井白石・本居宣長から
約300年間、吉備と讃岐が無視されてきた、あるいは単純に北九州と大和の間の投馬国と推定されたことで、
邪馬台国論争に決着がつかなかったということができます。
ところが1970年代後半から、近藤義郎氏を始めとする岡山県の考古学会の皆様のご尽力で楯築遺跡など弥生時代後期の
墳丘墓などの発掘調査が進み、大和で発生した古墳文化の原形は吉備にあったことが実証され、弥生後期の吉備は大和よりも
文化的に先進地域であったことが明らかになりました。
岡山市企画局情報政策部が葛原克人氏の監修で制作されたマルチメデイア版「古代吉備物語」の年表をインターネットで
ご覧になっていただければ分かるように、弥生後期の重要な遺跡のほとんどが吉備に集中している、といって過言ではありません。
ところが、これだけの材料が出揃いながら、岡山の人はおとなしいというか、単細胞的な思い込みと攻撃性が強い性格の方が多い
九州の人と足して2で割ったら丁度良いと思えるほど、遠慮しすぎていると感じます。
邪馬台国・吉備説は私が最初に主張したわけではなく、第2次世界大戦後、数多くの方が主張されてきましたが、
もっと声に大にして行くべきでしょう。少なくとも吉備の至宝が収蔵されている古代吉備文化財センターや吉備路郷土館などを
地元の方がよりもっと盛り上げて欲しいと願っています。
私は現在、邪馬台国・吉備説を実証する別のアプローチとして、古そうな、あるいは由緒がありそうな神社と
そこに祭られている神様の分布分析を進めています。吉備とその周辺は調べれば調べるほど奥が深く、
邪馬台国・吉備説を実証する事例がどんどんと出てきます。
結論を言いますと、@日本神話の主軸であるイザナギ・イザナミ、高天原、通常は出雲と考えられているスサノオの各神話は
吉備、恐らく備前と美作で弥生中期に発生した、A高天原は九州でも大和でもなく、鳥取県との境にある蒜山高原だった、
B大和で神道の祭祀を統括した中臣氏と忌部氏は吉備・邪馬台国の出身だった・・・
などこれまでの日本の常識では考えられなかった、私にとっても意外な結果となっていますが、その前に第1部の出版後、
進展した点を補足します。
(吉備・邪馬台国圏の領域)
吉備・邪馬台国は予想よりも広大で、吉備だけでなく、播磨の西部、対岸の讃岐にまたがり、讃岐は副首都の役割を担っていました。
備前・美作で成長した邪馬台国は弥生中期後半に膨張を開始し、その影響力は西は豊前、筑前、東は近江、紀伊・志摩半島にまで
及ぶようになりましたが、水銀朱の資源を求めた神武兄弟の大和進出もその膨張の動きに連動したものでしょう。
児島と内陸部にあった穴海の東からの出入り口にあたる水門湾の古代の入り江に近い場所にある安仁(あに)神社は
神武天皇の兄のヒコイツセを祀っており、神武兄弟が傭兵としてこの地に滞在していた裏づけの1つとなります。
(欠史8代という交通規則で迷路にはまり込んでいる古代史文献学会)
現在、学会の主流は、第2代目から第9代目の天皇は後世に宮廷の机上で考え出され、欠史8代といって歴史的には
存在しなかったとする説が常識となっています。
この説の源は津田左右吉氏が第2次世界大戦前に、継体天皇以前の天皇は想像上の人物であると断定し、時の軍部等から
迫害を受けたことにあります。戦後は立場が逆転して津田説が神格化され、欠史8代説が一人歩きを始め、それに異を唱える者は
交通違反者と見なされています。
しかし津田氏は各地を実地に歩いて確証したわけではなく、戦後の数々の考古学的発見も知らないわけで、
今日の視点から見ると机上で欠史8代を創作したのはむしろ津田氏ではないかと考えることができます。
欠史8代を正当化したことから、3世紀後半から四世紀末頃までの歴史は空白が続いており、学会の主流はここ20年ほど
迷路にはまり込んでいる印象がします。
今年9月に前田晴人氏の「桃太郎と邪馬台国」(講談社現代新書)が発行され、知人がすぐに送ってくれました。
前田氏も欠史8代説に立たれ、実在した天皇は仁徳天皇から、という論理で邪馬台国は大和、狗奴国は吉備と、
私と正反対の説を主張しておられます。
前田説によれば、邪馬台国の難升米が吉備・狗奴国を打ち破った将軍で、彼をモデルに6世紀頃に吉備津彦が創作され、
室町時代から戦国時代にかけて桃太郎物語りが誕生したという話になります。
投馬国は出雲で、丹波半島が大和と日本海を結ぶ外港だったという見解です。
しかし3世紀の邪馬台国から5世紀初頭の仁徳天皇の時代まで、大和がどのように進展・変化したかの具体的な説明はありません。
友好国であった丹後半島と出雲を崇神天皇がなぜ再征服しなければならなかった、についての説明も欠けていると感じます。
(大和の狗奴国は「葛(クズ)国」と呼ばれたとする仮説)
学会の中ですべての方が欠史8代に染まっているわけではなく、鳥越憲三郎氏などは奈良県南葛城地方の御所市を中心とした地域に
神武天皇が建国した葛城王朝が存在したと主張されています。
私も2003年3月に同地を訪ねてみましたが、狗奴国は「葛(くず)国」と吉備の人から呼ばれていたのではないかと思いつきました。
南葛城地方は現在でも葛粉の産地として有名で、また「くず」は「国栖」で野蛮な土民を示す意味にもなります。
狗奴は「くな」とも「くぬ」とも読みますが、「くず」は「くぬ」に転化しやすい音です。
自説では、狗奴国は大和地方から伊勢、美濃、尾張の東国に勢力を拡大して、邪馬台国に対抗しうる兵力を蓄積しました。
孝霊天皇の時代に、なぜ吉備に攻め入ったかの理由を考えていくと、富士山が大噴火して駿河周辺の難民が尾張や伊勢地方に
逃亡してきたことから社会不安が生じ、その活力を吉備征服に向けたのではないか、とあくまで仮定で考えるようになっています。
(注)葛原、葛城の「葛」は、本来は「ヒ」ではなく「人」の左横と下に「く」(「口」の上と右を省いた)漢字です
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その2.高天原は吉備の蒜山高原 (図:筆者が考える吉備・邪馬台国 参照)

(オオモノヌシから日本神話を辿っていくと)
邪馬台国の所在地論争は、魏帝が卑弥呼に授与した「金印」クラスの確固とした物証が発見されない限り、永久に続いていくでしょう。
私は第1部を出版した後、神社と祭神の分析から吉備・邪馬台国を実証するアプローチを進めています。
理由は、第1部で邪馬台国の最後の女王トヨ(台与)が大和に連れていかれ、吉備津彦の姉トトヒモモソ姫として遇された、
と結論づけたことにあります。
若くして天皇を即位した崇神天皇は疫病と災害の発生で悩まされ、大叔母にあたるトヨは三輪山にオオモノヌシ(大物主)を
招聘することを助言し、その助言を聞き入れた崇神は危機を乗り越え、東日本を含めた日本統一国家を築き上げます。
トトヒモモソ姫がトヨであるなら、オオモノヌシも吉備・邪馬台国の神ではないだろうか。
オオモノヌシの系図を辿っていくなら、吉備・邪馬台国が浮上してくるのではないか、と考えました。
オオモノヌシの先祖を系図で辿っていくとスサノオ、イザナギ・イザナミにつながります。
白井永二・土岐呂訓編「神社辞典」(東京堂出版)や川口謙二編著「日本の神様事典」(柏書房)を参考にしながら、
まず岡山県の主要神社を見ましたが、吉備地方は吉備を征服した大吉備津彦関連の神社が多く、スサノオ神社なども存在しますが、
どうみても根源地とは考えらず、自説は間違いか、と失望もしました。
ところが讃岐を見てみると、讃岐の一の宮である田村神社の祭神は私がトヨと考えているトトヒモモソ姫です。
通常なら吉備津神社と同様に弟の大吉備津彦が筆頭の祭神であってしかるべきですが、なぜかトトヒモモソ姫です。
やはり、讃岐に女王トヨを慕う信仰が残っていたのではないだろうか、と考察できます。
さらに金刀比羅宮の祭神はオオモノヌシであることを初めて知りました。
金刀比羅宮は讃岐と吉備の間にある塩飽諸島の漁民の信仰で室町時代頃から盛んになったと伝えられますが、
オオモノヌシの本家である大和の三輪山とのつながりはありません。
吉備・邪馬台国の神がそのまま瀬戸内海の島に残っていたと考えても自然です。
もしかしたら温羅将軍と共に大和軍に最後まで抵抗した残党の子孫かも知れません。
吉備津神社の中腹にも江戸時代には金刀比羅宮がありました。
(蒜山高原の高天原伝説)
自説を裏づける糸口が見つかったことから、今度はインターネットのヤフーを使って岡山県、広島県、兵庫県等の
各市町村のホームページで観光・史跡を検索していきました。
すると蒜山高原の川上村の茅部神社がある岩倉山に高天原伝説があることに驚きました。
川上村はきちんとした地図を作成されていて、天の安河、天の岩戸、真名井の滝があり、また周辺に大蛇、祝詞の地名もあります。
蒜山高原に高天原伝説があることは地元の岡山県でもあまり知られていないようで、
江戸時代あたりに郷土史家が創作したとも考えられます。私もまだ実際に訪れていないため、確実とは言い切れませんが、
色々と調べていくとやはり本物ではないかと思わざるをえません。
高天原は蒜山高原だったと言うと、九州説の皆さんは頭から湯気を出すほど激怒されると思いますが、
冷静に考えていただきますと、「その5」でも触れますが、高天原と天の石戸神話にはスサノオの存在が不可欠です。
スサノオがいなかったなら、高天原神話は成立しません。ところが九州説の高天原とされる福岡県甘木市周辺や日向の
高千穂の峰などにはスサノオの伝説は存在しない、あるいは存在したとしても根源地であるとはとても実証できません。
これとは逆に蒜山周辺はスサノオとヤマタノオロチ伝説が濃厚に存在しています。
今年3月に出版された安本美典氏の「邪馬台国と高天原伝承」(勉誠出版)も拝読しましたが、本命の蒜山高原を全く無視して
論議を進められておられることもあり、絶対に九州だとする感情が先行しているような印象を持ちました。
(備前の赤磐郡が日本神話の原郷か)
蒜山から下っていくと、那岐町の那岐山はイザナギ・イザナミが降臨した山でした。
イザナギは淡路島の伊弉諾神宮と滋賀県の多賀大社が根源地とされていますが、降臨の地ではありません。
那岐山から備前に入ると赤磐郡の吉井町にスサノオがヤマタノオロチを斬った剣を洗った「血洗の滝」、
その近くにスサノオとアマテラスの対決で誕生した宗像三女神を祀る宗形神社、金刀比羅山もありました。
大和の石上神宮との関連性を日本書紀でも紹介している石上にはスサノオの剣を祭った布都魂(ふつたま)神社、
赤坂町にイザナギ・イザナミを祭る多賀神社がありました。佐伯町にスサノオ神社、加三方磐座遺跡、英田町に天石門別神社もあります。
山陽町は弥生中期以来、備前の中心地と考えられ、宗教儀式かお守りとして使用されたと推定される分銅型土製品が大量に出土しています。
赤磐郡周辺がイザナギ・イザナミからスサノオを経て、オオモノヌシに至る日本神話の根源地なのではないかと思われるほどです。
山陽町から赤坂町を経て吉井町に至る街道沿いには、神社がやけに密集しており気になります。
備前焼の良質な粘土の産地でもある熊山も気になります。熊野の根源地は出雲か紀伊かで論争がありますが、
両者を結ぶ中間の熊山が根源地ではないか、とも感じています。
(太陽神オオヒルメ信仰)
高天原でスサノオと対決するアマテラスは日本書紀ではオオヒルメないしアマテラスと2つの名前が併用されています。
オオヒルメは太陽神あるいは太陽に仕える女性と考えられ、アマテラスは神武天皇の祖先神である点は、衆目が一致しています。
蒜山・高天原神話は、嵐神スサノオと太陽神オオヒルメの対決だったのではないか。
大和が吉備を征服した後、アマテラスと太陽神が合体したのが今に伝わる形ではないかと考えます。
実際に吉備には太陽信仰の痕跡があります。ウエブテレビの久保幸三氏の記事で教わりましたが、邪馬台国・熊山説の
若狭哲六氏は吉備の太陽信仰を調査されています。また江戸時代に備前で生まれた黒住教の祭神はアマテラスですが、
最も大事な儀式は太陽の復活を祈る冬至の祭礼ですから、アマテラスよりも太陽神のオオヒルメが本来の祭神ではないか、
と見ることができます。
通常、スサノオの根源地は出雲であるとされ、これまで日本神話は天つ神の大和と国つ神の出雲との対立のみで
考察されてきましたが、スサノオ神話の根源地は出雲ではなく、美作と備前周辺ではないか、吉備・邪馬台国の膨張と共に
出雲や播磨(姫路市の広峰神社は京都の八坂神社の根源地)に拡散したのではないか、と考える次第です。
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2004.11.15邪馬台国所在地論争 比定地と論者
邪馬台国の所在地をめぐっては、江戸時代から九州説の本居宣長から大和説の新井白石などの論争から始まり、
いまだに決着を見ていない 比定地も150箇所以上にのぼり、論者も無数に上るが有名どころの名前を紹介してみよう
◆邪馬台国 吉備説◆
久保幸三 広畠輝治 薬師寺慎一 若狭哲六
◎久保幸三(ジャーナリスト)岡山の吉備津・日差山周辺が邪馬台国の本拠地、卑弥呼の墓は楯築遺跡、投馬国は但馬、狗奴国は高知
◎広畠輝治(ジャーナリスト)岡山・香川・広島東部が邪馬台国の領域、蒜山高原が高天原、狗奴国は大和
◎薬師寺慎一(古代祭祀研究家)吉備津神社周辺が邪馬台国の本拠地、楯築遺跡が卑弥呼の墓
◎若狭哲六(古代史研究家)岡山県東部の備前市・熊山町にまたがる熊山が邪馬台国の女王の卑弥呼の終焉の地
●邪馬台国 大和説●
●1、邪馬台国 大和朝廷同一説
松下見林 新井白石 伴信友 橘良平 稲葉君山 内藤湖南 富岡謙蔵 梅原末治 高橋健二 笠井新也 森田元春 和歌森太郎
●2、大和朝廷九州発生 邪馬台国大和朝廷同一説
日本書紀の編者、片山正夫 中山平次郎 肥後和男 原田大六
●3、邪馬台国 大和朝廷断絶説
小林行雄 直木孝次郎 上田正昭
◎田辺昭三(東京造形芸術大学教授)畿内大和川流域、天理市から三輪山一帯、箸墓、石塚山が邪馬台国
●4、九州勢力による畿内邪馬台国打倒説
鳥越憲三郎
★邪馬台国 九州説★
★1、邪馬台国 大和朝廷独立並行説(襲国偽潜説、九州王朝説)
本居宣長 鶴峰戊辰 近藤芳樹 吉田東伍 那珂通世 星野恒 菅政友 久米邦武 白鳥庫吉 喜田貞吉 古田武彦
◎武光誠(明治学院大学助教授)福岡県筑後川流域が邪馬台国、狗奴国は肥後国北部 奴国は博多湾 弥奴国が吉野ヶ里
◎関祐二(歴史作家)卑弥呼の女王国の九州王朝(天皇家の祖先)がヤマトと偽潜して親魏倭王の印を取得、畿内ヤマトと合併した
★2、邪馬台国 大和朝廷同一起源説
坂本太郎 橋本増吉 太田亮 植村清二
★3、邪馬台国と大和朝廷の不連続説
津田左右吉 藤間生大
★4、投馬国東遷説 狗奴国東遷説
牧健二 水野祐
★5、騎馬民族征服説
江上波夫
★6、邪馬台国東遷説
和辻哲郎 栗山周一 飯島忠夫 和田清 榎一雄 市村其三郎 井上光貞 金子武雄 森浩一
◎奥野正男(宮崎公立大学教授)佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡や福岡県甘木市平塚川添遺跡を含む筑後川北岸が邪馬台国
◎黒岩重吾(作家)福岡県甘木市、久留米市、八女地方が邪馬台国 投馬国は出雲 不弥国は福岡県宇美町 伊都国は前原町
◎安本美典(産業能率大学教授)福岡県甘木市、夜須町付近が邪馬台国 卑弥呼の墓は甘木市大塚 邪馬台国が大和に移動
★7、具体的な場所による説
◎久保雅勇(画家)佐賀県吉野ヶ里が邪馬台国、伊都国は筑後川の東、斯馬国は糸島半島、吉野ヶ里の日吉神社の鳥居周辺が卑弥呼の墓
◎安藤輝国(古代史研究家)大分県宇佐市 宇佐神宮、安心院周辺が邪馬台国 宇佐氏は卑弥呼の末裔 宇佐神宮亀山が卑弥呼の墓
◎渡辺豊和(京都造形芸術大学教授)熊本県阿蘇神社周辺が邪馬台国、伊都国は小城町、投馬国は長崎県雲仙岳周辺、狗奴国は宮崎県高千穂
◎荒巻義雄(作家)有明海の東岸・福岡県山門郡が邪馬台国 狗邪韓国は福岡 卑弥呼の居館は阿蘇山のどこかにあった
■邪馬台国 その他■
移動海商連合国・佐治芳彦 四国阿波説・岩利大閑 静岡県下田説・肥田政彦
◎大川誠市(源初漢字・古代史研究家)出雲が邪馬台国 伊都国は福岡 不弥国は遠賀川周辺、投馬国は萩周辺
◎大杉博(古代史研究家)徳島県神山町山上が都 卑弥呼の墓は徳島市の八倉比売神社 投馬国は高知 狗奴国は徳島東部
◎小林恵子(古代史家)奄美大島が邪馬台国 2世紀後半から3世紀にかけて北九州の伊都国に本拠を置いた邪馬台国に移動した
◎木村政昭(琉球大学助教授)沖縄が邪馬台国 伊都国は佐賀県大和町 奴国は佐賀平野 不弥国は久留米 投馬は薩摩
◎岡田英弘(東京外国語大学名誉教授)中国晋朝狂言説・魏志倭人伝は偽書、邪馬台国は架空の国
2004.11.22広畠輝治著 「邪馬台国」岡山・吉備説から見る古代日本の成立の目次
フランスのパリ在住の気鋭のジャーナリスト 広畠輝治氏が放った「邪馬台国」岡山・吉備説から見る古代日本の成立の
目次を紹介します 邪馬台国研究家には必読の一冊といえるでしょう
第1章 邪馬台国ー岡山・吉備説を確信するに至った経緯
1、邪馬台国ー岡山・吉備説のきっかけ
2、神武東征の解釈
3、なぜ神武兄弟は大和地方に攻め入ったのか
4、日本の古代の暦システムと各族の定義
第2章 弥生時代前期(BC300年頃からBC100年頃まで)−越族による弥生時代の開始ー
1、呉族・越族による弥生時代の伝播
2、越族とは
3、越族弥生人の進出地域ー縄文人との融合と真珠・ヒスイの発見ー
第3章 弥生時代中期(BC100年頃からAD100年頃まで)−倭族による西日本でのコロニー国家群の形成ー
1、朝鮮半島南端地域の倭族の成長
2、西日本での倭族コロニー国家群
3、倭族のクニと倭国
4、神武の東征とその意義
第4章 弥生時代後期と古墳出現期(AD100年頃からAD300年頃まで)
ー吉備・邪馬台国の倭族コロニー国家群の把握と大和・狗奴(くな)国による邪馬台国成立と大倭国の設立ー
1、吉備・邪馬台国が倭族コロニー国家群の盟主に
2、中国地方での墳丘墓の発展と倭国大乱
3、卑弥呼と狗奴国の戦い
4、大倭の成立と魏鏡
5、崇神と台与(とよ)
6、崇神による原日本国家「大倭国」の確立
第5章 吉備路に邪馬台国を探す現場検証の旅
1、吉備・邪馬台国の中心部は吉備津神社と楯築墳丘墓を結ぶ線上
2、吉野ガ里と金印塚
3、菟田野(うたの)、橿原と巻向(まきむく)
4、桃太郎と温羅(うら)伝説
その他に年表やら図面、写真なども多く、わかりやすい構成になっている 広畠説の特長は古事記の第七代の天皇の
孝霊(こうれい)天皇の時代に「吉備を征服した後、何の波乱劇もなく、吉備以西の瀬戸内海地域と北九州地域を手中にし、
それが大和国の原日本建設と統一の直接のきっかけになった」という点に注目して論を進めている
吉備が邪馬台国で、狗奴国が大和という斬新で大胆な仮説を立てている
2004.11.7ウェブテレビが「吉備 邪馬台国の会」結成!ホームページリリース!
「邪馬台国は吉備国だった!」の世紀のスクープ!を、かっ飛ばしたウェブテレビでは反響が大きいため、
「吉備 邪馬台国の会」を結成!会員サービスのためのホームページとフォーラム型掲示板をリリースした
「吉備 邪馬台国の会」
ホームページ 吉備 邪馬台国の会http://www.webtelevi.com/kibiyamatai.htm
専用掲示板 吉備 邪馬台国 掲示板http://www.webtelevi.com/cgi-bin/kibi/bbs.cgi
メールアドレス メールkibiyamatai@yahoo.co.jp
「吉備 邪馬台国の会」では専用掲示板による邪馬台国関連のフォーラム、「邪馬台国は吉備国だった!」説の情報収集
年に2回程度の吉備 邪馬台国巡り などを予定しています 会費無料 自由参加 邪馬台国に興味のある人は誰でも参加できます
ウェブテレビでは今までにリリースした「邪馬台国は吉備国だった!」関連記事以外にも、未公開の膨大な資料を持っています
会員には、メールなどで特別に公開します
入会方法は簡単、メールで住所・氏名・メールアドレス・ケータイ番号をご連絡ください 折り返し、会員番号を通知します
邪馬台国問題は非常に奥の深い問題です 「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあるように、多数の人で議論すれば
邪馬台国の真実に迫ることができるでしょう 先ずは気楽に「吉備 邪馬台国の会」へ入りましょう
遂にわかった!邪馬台国の所在地 「邪馬台国は吉備国だった!」
削除した記事については過去記事販売のご説明をごらんください
2004.10.24ジャーナリストの広畠輝治氏の「邪馬台国・岡山・吉備」説の概要
2004.10.13邪馬台国の年代的考察
2004.10.9日差山の歴史と方位と場所
2004.10.16熊山遺跡から大和黄鐘、大王の銅鐸が出土している
2004.10.16郡から邪馬台国まで1万2千里、ソウルから松浦まで6千里、松浦から吉備まで6千里
2004.10.11総社市の岩屋寺の鬼の岩屋と奈良県の明日香村の石舞台古墳がよく似ている
2004.10.6中丸薫 著の「古代天皇家と日本正史」を読むと
2004.10.7古代史家の若狭哲六氏の邪馬台国は岡山県熊山説
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