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●2007年3月4日(日)●
「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に殺されたわけだが、時は1582年天正10年6月2日未明のことだった そのころ羽柴秀吉は
備中高松城を取り囲んでいたわけだが、その6月2日の夜に明智光秀の密書を持った使者が毛利軍の小早川隆景の陣と羽柴秀吉の陣を
間違えて、羽柴陣に行き黒田官兵衛に捕まったという 高松城周辺の現場を見る限り、羽柴陣と小早川陣を間違えるとはとても思えない
羽柴陣は高松城の東の山、小早川陣は南の山であり、かなりの距離がある 重要な使者なのでそれなりにしっかりした使者を明智光秀は
立てただろうから、使者が行き場所を間違えたという論は理解しがたい 使者の密書は羽柴秀吉に渡され、使者は殺されたようだが
その密書は「約束どおり、織田信長を殺したぞ」という明智光秀の密書では無かったか?
羽柴秀吉は織田信長の暗殺計画を事前に知っていたから、いわゆる「中国大返し」という荒業で姫路まで1日半で帰った 十分、事前に
準備していないと姫路まで1日半では帰るのが無理だろう 現在でも車で3時間くらいはかかるほどの距離がある 徒歩で1日半で
帰れたということは事前の入念な準備があったことをうかがわせる
その密書はただちに焼かれただろうから、現在残っていないことは当然だろう 織田信長の暗殺の共謀の口封じのため、急いで
明智光秀を殺す必要が羽柴秀吉にはあった そこで山崎の戦いで明智光秀を討った
もし、本能寺の変が無くて織田信長が備中高松城に到着したら、恐らく毛利は戦わず、すぐ降伏していただろう
毛利の外交僧の安国寺恵けいが既に羽柴秀吉と外交交渉をしており、城主の清水宗治の切腹と引き換えに城兵の助命をすることで
事前の合意が出来ていた が、これもヘンな話で織田信長の事前の了解も得ずに現地司令官の羽柴秀吉が勝手に交渉していたということになる
軍律の厳しい織田軍のことだから、こういう越権行為は打ち首になるだろう ということは羽柴秀吉は事前に織田信長の暗殺を
知っていた?知っていたから勝手に交渉した?ということになる
「本能寺の変」で直接助かったのは毛利、もし織田信長が備中高松城に来たら、戦っても恐らく負けるだろう だから降伏しただろう
「本能寺の変」が起こったおかげで、毛利は助かったといえる 毛利も事前に織田信長の暗殺計画を知っていたのかもしれない
安国寺恵けいは臨済宗の東福寺の住職も兼ねており、元は安芸武田氏の出身で御所にも出入りしていたようだ
武田つながりで甲斐武田氏とも情報交換をしていたのだろう 「本能寺の変」の後、すぐに武田の残党が甲州で蜂起、織田軍の武将の
滝川一益がほうほうの体で逃げ帰っている
こうやって考えてみると、織田信長暗殺計画は朝廷や毛利や武田残党などで周到に作戦が練られ、その実行犯として明智光秀が
選ばれたという気がしてくる 明智光秀も6月2日に織田信長を暗殺して、6月13日に羽柴秀吉に討たれているから3日天下ではなく
10日天下ということになる 織田信長もかなり無茶をしているので、いずれ非業の死を遂げる運命にはあったものだろうが、
備中高松城の現場から、「本能寺の変」を考えると、明智光秀、羽柴秀吉、小早川隆景、安国寺恵けいなどのチームプレーのような気がする
そう考えると、豊臣秀吉が天下を取った後の小早川隆景の厚遇なども、よく理解が出来る
「本能寺の変」のキーマンは恐らく、安国寺恵けいだろう
2007.02.151582年天正10年6月2日明智光秀による織田長暗殺をめぐる諸説
1、朝廷が黒幕だ説 井沢元彦(作家)
2、信長が秀吉を寵愛して、人気を奪われたため光秀が嫉妬して殺した 南條範夫(作家)
3、信長が皇位を簒奪しようとしたため、光秀が反発した 桐野作人(作家)
4、堺の納屋衆、千利休らが信長を脅威に感じて、光秀をそそのかした 中津文彦(作家)
5、羽柴秀吉、徳川家康、明智光秀が三者で共同謀議して信長を殺した 大浦章郎(作家)
6、光秀の個人的怨恨 窪田達明(作家)
7、光秀の野望説 三好京三(作家)
8、光秀の義憤説 長尾誠夫(作家)
9、光秀のノイローゼ説 典厩五郎(作家)
10、光秀の肉体的な衰えによる挙兵説 羽山信樹(作家)
11、信長に苛められた長年にわたるわだかまり説 吉村正一郎
12、近衛前久と徳川家康が共謀して暗殺した 火坂雅志
13、公家と天皇家が共謀して暗殺した 伴野郎
14、公家と天皇家と足利義昭と毛利輝元などが共謀した 秀吉はその計画を知っていた 光瀬龍
15、ルイス・フロイスと光秀が共謀した説 豊田有恒(作家)
16、安国寺恵ケイを中心に朝廷やその他の勢力が協力した説 加来耕三
17、羽柴秀吉が光秀を動かした説 えとう乱星
18、光秀をそそのかして、中国大返しの準備を進めていた羽柴秀吉黒幕説 新宮正春
19、伊賀の忍者が信長に復讐した説 小林久三
20、光秀と武田残党が協力した 岩崎正吾
まず、正確な事実を知るために、羽柴秀吉による備中高松城水攻めと本能寺の変に関連する歴史の年表を作ってみよう
正確な事実の把握が謎解きには一番必要なことでしょう
1560年 永禄3年 5月 織田信長(42歳)が桶狭間の戦いで今川義元(42歳)を破る 松平元康が岡崎に帰る
1568年 永禄11年 9月 織田信長が足利義昭を奉じて、入京する
1571年 元亀2年 9月 織田信長が比叡山を焼き討ちにする
1573年 天正1年 2月 足利義昭が、武田、浅井、朝倉、本願寺とともに織田信長征伐を謀る
1573年 天正1年 7月 将軍義昭が織田信長に京を追われ、室町幕府が滅亡する
1573年 天正1年 8月 浅井・朝倉両氏が織田信長に滅ぼされる
1575年 天正3年 5月 三河長篠の戦が起こり、織田信長と徳川家康の軍が武田勝頼を破る
1582年 天正10年 3月 織田信長と徳川家康が甲斐に攻め込む 武田勝頼(37歳)が天目山で自刃、武田家滅亡
1582年 天正10年 6月 本能寺の変が起こり、織田信長(49歳)が明智光秀に暗殺される
1582年 天正10年 6月 山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀(55歳)を討つ
1582年 天正10年 7月 羽柴秀吉が山城を領地し、太閤検地が始まる(〜98年)
1585年 天正13年 6月 羽柴秀吉が四国に出陣する 7月 秀吉が関白になる
1586年 天正14年 12月 秀吉が太政大臣になり、豊臣姓が与えられる
1590年 天正18年 7月 秀吉の小田原征伐で北条氏が降伏する 家康を関東に移封し、秀吉が奥州を制圧する(天下統一)
1592年 文禄1年 4月 朝鮮出兵を開始し、5月に漢城を、6月に平城を陥落させる(文禄の役)秀吉が朱印船制度を定める
1597年 慶長2年 1月 再度、朝鮮に出兵する(慶長の役)
1598年 慶長3年 8月 秀吉が死去する(63歳)徳川家康と前田利家が朝鮮からの撤兵を命じる
1600年 慶長5年 9月 関が原の戦いが起こる
1603年 慶長8年 2月 徳川家康が征夷大将軍になる
急度、飛檄をもって、言上せしめ候。
こんど、羽柴筑前守る秀吉こと、備中において、乱妨を企て候条、将軍御旗を出され、三家御対陣の由、まことに御忠節の至り、
ながく末世に伝うべく候。然らば光秀こと、近年、信長にたいし、いきどおりをいだき、遺恨もだしがたく候。
今月二日、本能寺において、信長父子を誅し、素懐を達し候。かつは、将軍御本意を遂げらるるの条、生前の大慶、これに過ぐべからず候。
この旨、宜しく御披露に預かるべきものなり。
誠煌誠恐
6月2日
小早川左衛門門佐殿
惟任日向守
信長の代、五年三年は持たるべく候。明年辺りは、公家などになるべく候かと見及候。
左候て後、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え候。
藤吉郎、さりとてはの者にて候。
●安国寺恵けいとは?
1539年(?)生まれ
安芸一国に号令していた守護大名の安芸武田氏の嫡流で武田信重の子(幼名は竹若丸)安芸武田家は室町時代に若狭守護の武田氏を配す
臨済宗の五山の一つの東福寺(113世の名僧の竺雲恵心の弟子になる)で修行、毛利家の外交僧となる
東福寺は九条家と一条家が財力を傾けて作った寺で、東大寺の東と興福寺の福から名づけた 秀吉時代に1600石加増されている
織田家の外交(申次)は羽柴秀吉、足利義昭と織田信長の調整をしていたのが朝山日乗(13代将軍の足利義輝の時代から外交担当)
京都で朝廷や諸寺院に頻繁に出入りしいた 京都南禅寺の住職も兼務していた
安国寺恵けいは、秀吉の四国征伐の後、伊予の国(伊予の内)で2万3000石をもらい大名になった(後、6万石の加増される)
関が原の戦いでは、石田三成から最初に相談にあずかり、毛利輝元を西軍の総大将に引っ張り出した
関が原の戦いの前には、毛利秀元、長曽我部盛親、吉川広家らと伊勢の安濃津城(富田信高5万石)を攻め、首48個獲得、
関が原の戦いでは、南宮山に1800人で陣取るが、吉川広家の妨害で参戦せず
9月23日に本願寺にいたところを、奥平信昌(上野小幡城主)に捕まる
10月1日、安国寺恵けい、石田三成、小西行長の3人が大阪、堺、京都の町を引き回され、京都の六条河原で斬首
三条橋に首をさらされる 長束正家の首も一緒にさらされる
1600年 死去(62歳)
中国兵乱記(1615年、経山城主 備中高松城に篭城の中島元行著)
五、輝元卿が御次丸・秀吉の御陣を攻めるためご評議を行なわれた事並びに安国寺が妨げた事
織田御次丸と羽柴秀吉は、高松城の砦である四箇所の要害が手に入り、武威は益々盛んとなった。
毛利勢は、今は高松一城で支えていた。秀吉卿は宇喜田の家臣に命じて、
「高松篭城の諸士が信長卿へお味方すれば、本知の他に倍の領地をあてがう。忠功によっては国主、郡主にも取り立てる」
と城中への計略を怠らなかった しかし、篭城の物頭は清水・中島の一族や譜代の侍であり、その計略に応じなかった。
そのため、高松城を魚鱗形に遠巻きにし、逆心の上原右衛門太夫・生石中務を案内者として昼夜にわたり攻め寄せた。
清水宗治と中島元行は、密使をもって隆景卿と元清の陣所へ、
「このたび、篭城の一族に利運が無い時には枕を並べて討ち死にしようと当国吉備津宮神前で神水を酌み交しており、武名を
汚すようなことは致しません。天下分け目のご合戦であり、御家の安否がかかっていると承知しています。
ご計略がお有りならば、篭城堅固にし持ち抱えます。武略のためご出陣を延引される時には、城中より突いて出て御次丸・秀吉の旗本へ
突きかかり、御大将の眼前で長左衛門・大炊助・月清・右衛門尉ともども枕を並べて討ち死にし、命は太守(輝元)へ捧げ
名を子孫のために残したい」
と申し上げたところ、隆景卿・元清両人より、
「真実の忠義に、感じ入っている。太守も後詰としてご出陣され、武略を練っており、篭城堅固にし、城を持ち抱えて欲しい」
と仰せ下された
四月二十日、輝元卿が猿掛山城へご出馬になり、先陣は都宇郡釈迦が峰(庚申山)・不動嶽(庚申山)、庇山(日差山)・黒住(新庄字黒住)
天神山(新庄下の山)・岩崎(新庄字岩崎)へ出張り、野山・平野等に陣取り、毛利家の旗数百を峰の嵐に吹きなびかす様は、龍田の紅葉とみまがうばかりであった。
高松篭城の老若男女は非常に喜んだ。日々の軍評定で決戦が延び延びになっていた時、宍戸備前守が、
「信長が軍勢を送り込んできてから降参した侍大将もある。このままでは、まだ降参する者が出るかもしれない。それを防ぐためにも
旗本をもってひと合戦なさるように」と申し上げた
それを請けいれられ、軍の損益を評議して陣構えを決められた。左一手は
毛利冶部太夫元清・河野兵部大輔・出羽十郎・秋月三郎・梨羽中務・楢崎十兵衛・三浦兵庫・小泉左衛門・有地民部少輔が
日幡九郎左衛門・細川兵部を案内者として板倉村(吉備津字板倉)から忍び寄り、辰田村(岡山市立田)の羽柴の陣を攻めることに決めた。
他の一手は、小早川藤四郎・吉見大蔵・立花左近将監・神村豊後守・三吉佐渡守・三好備後守と国侍の笠岡掃部・小田孫兵衛
赤木蔵人・成羽越前が生石村妙現山(小山の妙見山)より、織田御次丸の御本陣のある龍王山(最上稲荷北)へ鼓貝を合図に攻めかかり、城兵もこれに呼応して
辻村(高松字辻)の持宝院の谷より羽柴の陣を攻めると、諸方へ合図を伝えた。
この時、安国寺恵ケイが輝元卿へ、
「織田信長卿は中国・西国で味方する国主・郡主へ莫大な恩賞を与えるとしきりに計略をめぐらせている。当方の侍大将も
心を寄せている者もあり、ここは敵方へ軍を仕掛けるのは延引したほうがよろしいのではないか。御旗本の備えを固め、
敵方の動きをご覧になり、その上で一戦を遂げられてはどうか」と密かに申し上げた。
このため、二十二日の合戦を延引する旨、城内へ仰せ下された。
清水長衛門と中島大炊助はこれを聞き、物頭を本丸へ呼び集め
「輝元卿は二十カ国を隋えておられる天下無双の大家である。織田信長が義昭公を攻めるため使わした軍勢の進出を押さえるようにという
義昭公の上意であり、輝元卿の命である。賢将・勇将の多い中で、不肖ながら我らが天下境目の守護を仰せ付けられている。
これは生前の面目であり、死後の名誉となることである。義を重んじ、名を惜しみ、正しい道を守って死ぬのが武士であり、
徒らに、対陣しても智勇武備を持ち合わせぬ奴だと嘲笑されるだけだ。夜討ちをかけ、敵味方の眠りを覚まし、
敵方が豪傑か臆病な奴かを見てやろう」というと、同音に賛成し、当月二十五日に夜討ちをかけると決めた。
●2007年2月14日(水)●
ウェブテレビが邪馬台国の女王の卑弥呼が住んでいたと比定している倉敷市の日差山の麓に住んでいるが、日差山周辺は古代史の宝庫であり
近くに楯築遺跡などもある 日差山の山中には王墓山遺跡に見られるような墓の跡が無数になる 岡山大学の近藤教授の調査チームも
あまりに広すぎて調査が出来なかったようだ また戦国時代の豊臣秀吉の備中高松城水攻めの際に毛利軍の武将の小早川隆景が陣を
引いた場所も日差山である 古代でも大和朝廷軍+備前軍と、ウラ(温羅、百済の王子といわれる)が戦った場所も備中高松城あたりだろう
備中高松城のすぐ南に日本で4番目に大きい造山古墳がある 歴史は繰り返すというが戦場もまた似たような場所になるのだろう
日差山の頂上から、備中高松城あたりを見ると、非常によく見える 小早川軍からすれば羽柴秀吉軍の動きは手に取るようにわかっただろう
それなのに、羽柴秀吉軍は高松城の南に3キロに渡って、堤防を築いて、高松城を水攻めにしたという
しかし、これはどうみてもおかしい 毛利軍が堤防工事の妨害をしようと思えば、簡単に出来る距離にあり、みすみす完成まで
見逃していたというのはどうみてもおかしい 羽柴秀吉は工事に使う土の入った俵一俵を高額な金で買い取って、使ったということだが
それで近くの農民が競って、俵に土を詰め込んで現場まで運んだようだ
あるいは、毛利軍の兵士が農民の格好をして、土の入った俵を持ち込んだのかもしれない 一種の買収?そう考えないと、どうみても
不自然である 毛利軍の暗黙の了解がないと堤防工事を3キロも作れるわけが無い 毛利軍が本気で堤防工事を邪魔しようと思えば
いくらでも策があったわけである 羽柴秀吉の高松城水攻めのときに京都の本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた
「備中兵乱記」(中島元行という総社の武将が1615年ごろに書いた)を読むと、毛利軍の外交僧の安国寺エケイが毛利軍による
羽柴軍攻撃を延期させている あるいは安国寺エケイは織田信長の暗殺計画を事前に知っていたのかもしれない
そうでないと、攻撃を延期する理由が無い 高松城は羽柴軍に囲まれて、ヒーヒーいっている状態なので、援軍にかけつけた毛利軍は
羽柴軍を蹴散らして、清水宗治以下の篭城軍を救出するのが当然だろう ところが、それを延期して、羽柴軍の堤防工事完成も
見逃している これなど、どうみても不自然な動きだ 羽柴軍も毛利軍も事前に織田信長の暗殺計画を知っていた?それで京都の
動きをじっと両者が見ていた?織田信長暗殺が確定してからの羽柴秀吉の動きも素早い すぐに毛利軍と和睦して、いわゆる
「中国大返し」というやつで、全軍を1日半で姫路まで猛スピードで返している これなど事前にそうとうな準備をしてなければ
出来ぬ技だろう また毛利軍も逃げる羽柴軍の追撃をまったくしていない これも不可解な点だ
逃げる軍を追撃するわけだから、これほど戦いやすい戦はない しかし、まったくやっていない
高松城の現場から、水攻め、羽柴軍、毛利軍の動きを考えてみると、そういった羽柴軍と毛利軍は織田信長の暗殺計画を事前に
知っていた上で、お互いに芝居をしていた?という疑惑が浮上してくる
備前と備中の境目あたりは、古代史、中世史ともに、なかなか面白いところのようだ
■ 北条早雲(伊勢新九朗長氏)の年表 ■
西暦 和暦 年齢 出来事
1 1432年 永享4年 荏原庄(岡山県井原市)で北条早雲生まれる。
2 1464年 寛正5年 33才 この頃足利義視の近侍となる。
3 1467年 応仁1年 36才 応仁の乱で足利義視に従い伊勢に下る。
4 1468年 応仁2年 37才 妹の嫁ぎ先である今川家に請われて駿河に下る。
1470年 文明2年 39才 この頃故郷に帰り法泉寺の改修・造営を行う。
神代町小迫に薬師如来を祀る。
1471年 文明3年 40才 法泉寺造営に当たり▼禁制を出す。
5 1476年 文明8年 45才 今川家の家督争いを治める。
6 1479年 文明11年 48才 上洛。
1483年 文明15年 52才 幕府の申次衆となる。
1484年 文明16年 53才 この頃法泉寺に▼摺り袈裟を寄進する。
7 1487年 長享1年 56才 駿河に下り、小鹿範満を討ち、おいの氏親を駿府城主とする。
8 1487年 長享1年 56才 興国寺城主となる。
9 1493年 明応2年 62才 堀越御所の足利茶々丸を攻める。
10 1495年 明応4年 64才 大森藤頼の小田原城を攻略する。
11 1516年 永正13年 85才 新井城に三浦義意父子を滅ぼす。
12 1519年 永正16年 88才 韮山城で北条早雲没す。
1521年 大永1年 氏綱、早雲の遺言により、箱根湯本に早雲寺を創建する。
その後、2代北条氏綱の時代で武蔵国安房国などを支配。3代氏康に関東一円を手中に収めたのである。
↓振込み口座↓
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ジャパンネット銀行 普通預金 001−1125752 クボコウゾウ
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出張サービスは、サポート会員特別価格 2時間 5000円です(遠方の場合は行き帰りにかかった時間も含まれます)
教習科目.....ウインドウズ95、98、インターネット、メール、CD−RW、ネットワーク
.............ホームページ、ワード、パール、C言語、サーバー、ストリーム 他
授業料.......2時間、10,000円
.............(岡山市、倉敷市以外は 出張料5,000円加算)
●メールでの、ご相談・申し込み●..... wtfront@yahoo.co.jp
●ケータイでの、ご相談・申し込み●.....080−3051−5480 久保まで
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